正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

「自灯明・法灯明」

涅槃経と言っても、大乗の涅槃経は設定だけ初期涅槃経の舞台を借りた異質の経典です。

大乗涅槃経の基本的教理は、4つ
如来常住(にょらいじょうじゅう)
■一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
■常楽我浄(じょうらくがじょう)
■一闡提成仏(いっせんだいじょうぶつ)
以上の4つを柱として要約される。涅槃経は、釈迦の入滅という初期仏教の涅槃経典と同じ場面を舞台にとり、また諸行無常という仏教の基本的理念を踏まえながら、如来の般涅槃(はつねはん)は方便であり、実は如来は常住で不変だとして、如来の法身(ほっしん)の不滅性を主張する。(大乗涅槃経概要)

 もう一方の涅槃経では全く反対概念で、仏性や常住思想などなく、釈尊が、自分の死後は「法を依(よ)りどころとし、自らを依りどころとせよ」(自灯明・法灯明)といったこと、また「すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」と諭したことなどが重要ポイント。

では、アーナンダよ、どのように比丘は自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのか。

ここに比丘は、身体について、身体を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。もろもろの感受について、感受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。心について、心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。

もろもろの法について、法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。このように、アーナンダよ、比丘は自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を島とし、法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのです。(長部第16大般涅槃経第二章より 片山一良訳)

大乗思想のように菩薩や多くの仏に依存して成仏を目指す方法論はなく、 あくまでも「自灯明・法灯明」を島として智慧の開発を促しています。

随分違う、仏教

日蓮の過激な折伏精神は、法華経には見られないもので、涅槃経の一部分を取り上げてその骨子としたようです。

涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし(曾谷殿御返事)

これもお釈迦さんの実例に即してみれば、まったく違います。スッタニパータから関係の偈を引用します。

■かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。

■これらの論争が諸々の修行者の間に起こると、これらの人々には得意と失意とがある。 ひとはこれを見て論争をやめるべきである。
称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

■「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは、わたくしは説かない。

「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる」とも説かない。

それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)

■家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

■世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。

それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

■争闘と争論と悲しみと憂いとものおしみと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起こる。争闘と争論とはものおしみに伴い、争論が生じたときに、悪口が起こる。(スッタニパータ・「ブッダのことば」中村元氏訳)

 

日蓮さんは阿含経くらいは見てた可能性はありますが、スッタニパータは日本には渡っていませんので、存在すら知らなかったようです。これを見たらどう思ったでしょうか?