正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

逆伏するゾ・7

立正安国論という鎌倉幕府に呈上した私的勘案文では、そのとき流行ってた宗派を廃止し釈迦の本意である法華経を用いなければ国が滅ぶ、とヤバ系論が書かれています。

まぁアジとしては立派なんですが、題名の由来も相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗や禅宗などの邪法を信じていることにある。

だから諸宗を禁圧追放とし、法華経で鎮護国家が成立すると、マジにタカビーしてますが、実はホンボシの法華経以外にも鎮護国家の聖典とされた金光明最勝王経なども引用してます。

諸教は方便・無得道といいながら、方便の仁王経や金光明最勝王経等引用するのですからコリャなんともですね。この所はあとで非難された他宗の坊さんから指摘されてます。 

そして、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(立正)国家も国民も安泰となる(安国)とブッタんですね。さて、これほどまでに豪語している法華経ですが、日蓮サンは実はノー実証で書いてます、サンプル出しましょう。

中国で天台大師こと智顗に深く帰依した晋王広のあらまし。

●智顗・滅後7年目に晋王広、前皇太子(兄・楊勇)を殺して即位。一説には父である文帝も殺して即位。
煬帝(604-618) 隋の第2代皇帝。楊堅(文帝)の次子。

●581年(開皇1)晋王に封ぜられ,南朝陳の併合には行軍元帥となり手腕をみせた。こうした功績と母の皇后の偏愛を巧みに利用し、皇太子であった兄の楊勇を失脚させたて皇太子となる。

●604年(仁寿4)文帝が死ぬと遺詔を改竄し、兄の楊勇などを殺害したうえで位についた。文帝が再び兄の楊勇を立てようとしたため,これを察知した煬帝が先手を打って文帝を弑逆したのだという説もある。

●即位後は、大運河など土木をしきりに起し、対外的にも積極的に覇権主義をとった。しかし高句麗遠征に失敗、遂に各地の反乱を招き亡国の予兆。(在位 604-618)

■そして、智顗の入滅から約二〇年を経て、大業一四年(六一八)、江都(江蘇省揚州)の離宮に滞在していた隋の皇帝楊広は、部下の宇文化及らに殺害される。

 どうです、コレじゃマズイですね。ひょっとして北条時頼がもし立正安国論を用いていたら、こうなった可能性アリアリです。なにせ日蓮サンが信奉した天台大師の事跡がこうなんですから、もしタラレバだったら、オイオイだったんです。

 よく検証もせずに人に勧めるとは、いまなら手錠ものですが、おそらくこういうことは知らずに、狂信的信仰感情、つまりキィ〜でやってたと思いますね。