正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

阿羅漢は灰身滅智か?:5

天台大師の著した摩訶止観という書物にはこんな文章があります。

言葉を通して理論的に仏教を説いていく教典の中では、究極の境地である阿羅漢というものが実は真実を得た仏の境地と同じである。(摩訶止観

 これの解釈は悩ましいのですが、大乗仏典でいう阿羅漢は、2つの意味があって上座部の最高の悟りである阿羅漢果とは意味が違うようで、迷いのもととなっています。以下が端的ですので紹介します。

自分たちは今まさに本当の意味での阿羅漢になりえた。
釈尊の説かれた真実と言うものを言葉にして、それらの言葉をこの世の中の一切のものに聞かせよう。(法華経信解品)

これは阿羅漢の意味を大乗思想に辿り得た境地を指していることは間違いないですね。

戒律重視の上座部と比較して大乗仏教信仰の立場では、戒律というものについてあまり重点を置かなかった。 最澄も末法では持戒の僧侶は市場の中の虎のようなもので、誰も近寄らないと残してます、無戒と言うわけです。

戒律を守っている言う事は、むしろ初期仏教の修行成果としてだけで、大乗では価値がないと言う解釈を一般にしていた訳です。ところが鎌倉期の禅僧・道元正法眼蔵の「阿羅漢」の巻では、まったく違う解釈をされてます。

仏道修行において、戒律をきちっと守れる様になり阿羅漢になったという事は仏になった事と全く同じである。

仏教徒が仏教を小乗仏教大乗仏教とに分けて、小乗仏教で阿羅漢の境地に達した人は、必ずしも大乗仏教の立場から見て価値が完全とはいえないと主張した。(阿羅漢の巻・現代文)

これを見ても、道元日蓮法然の法滅観などなく、あくまでも釈迦の祖意はどこに有るかを追求してた事がわかります。