正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

阿羅漢は灰身滅智か?:6

道元さんは、日蓮法然とは違う仏教観で、それは今の上座部から見れば非常に正しい筋道であったと評価されています。

ようするにインドの初期仏教と教えが近いそうです。それは戒律保持の意味や悟りの考え方が、中国で歪曲されずに渡ってきたようですね。

仏教を小乗仏教大乗仏教と二つのものに簡単に分けてしまって、大乗仏教は尊いが小乗仏教は尊くない、戒律を一所懸命追い求めている仏教徒の生き方は、本当の仏教ではないと言う理解の仕方は誤りだという主張も説かれています。(正法眼蔵・阿羅漢)

 初期仏教でもそうですが、スリランカなどのテーラワーダ仏教では、阿羅漢と仏の境地とが同じだと言う考え方は、共通の原則で、大乗のように阿羅漢果を批判したり小さい悟りだと叱責する理由はないことが確認できます。

ところが、大石寺ではそういうことは一切認めないようです。法華経五百弟子受記品の衣裏珠譬(えりじゅのたとえ)を使って以下のように説いています。

「ある貧乏な男が親友の家で酒に酔って寝入ってしまいました。
親友は外出するので、眠っている男の衣装の襟の裏に、宝の珠を縫い込んで出掛けました。
男はそれに気付かず、そののち他国を放浪し、少しの収入で満足しながら暮らしていました。
再び親友に出会ったとき、親友から宝の珠のことを聞かされ、男は初めてそれに気づき、ようやく宝の珠を得ることができ、裕福な暮らしをすることができた」
という話であります。

 

この譬え話では、酒に酔った男は声聞の衆生のことで、親友は仏、釈尊のことであります。阿羅漢果という小乗の悟りに満足する愚かな衆生が仏の真実の教えを聞いて、はじめて自分の中にも仏性が具わり、成仏が可能である、と知ったことを教えられています。(日蓮正宗美畑山清涼寺法話)

 この話も一般大乗の見解ですが、いまではこういうことを言う教団はありません。現代に生きながら思考は鎌倉時代ですね。