正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

カルトの総本山:5

それでは天英院さんの事跡を見てみましょう。

●明顕山祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人の弟子祐海が中目黒に起立、同年7月15日麻布竜土に入寂した上人の真像を本堂に祀って本尊と仰ぎ、その遺命を継いで常念仏の道場としました。
綱吉の母桂昌院、側室瑞春院らは祐天上人に篤く帰依し、家宣は台命を以て増上寺第36世としました。上人寂後、竹姫は阿弥陀堂・仁王門を、家宣正室天英院は梵鐘・鐘楼を祐天寺に寄進建立しました。(明顕山祐天寺サイト)

 ここに「家宣正室天英院は梵鐘・鐘楼を祐天寺に寄進建立しました」とあります。この寄進は享保十三年(1728)にされたそうです。
正徳4年(1714年)に天英院は、江戸常泉寺の本堂建立のため千五百両供養してます。祐天寺の梵鐘寄進はそれ以後の出来事ですね。
そして享保2年(1717年)8月22日、天英院52歳のとき、大石寺三門が落成しています。祐天寺の梵鐘寄進はそれから11年後のことです
天英院の逝去は寛保元年(1741年)2月28日のことですから祐天寺は亡くなる13年前の晩年の寄進ですね。以下の文章で確認できるのは、大石寺の言うことが嘘だとわかります。

決して単なる謗法の供養などと言えるものではないのです。当時幕府の財政状況は次第に厳しくなってきていましたから、幕府が自分の意志で寺社に莫大な寄進をすることなどほとんどなかったからです。(天英院について・日蓮正宗サイト)

江戸幕府は祐天寺以外にも多くの寄進を行っています。また八代将軍吉宗の頃ですから絶頂といえる時期ですね。そして天英院は上野増上寺に葬られますが、そこでも戦後に意外なものが発見されています。

戦後墓地が売却されたことにより、その墓は1959年(昭和34年)4月に発掘調査された。
墓の上には石製八角塔が建てられていた。ちなみにそれまで将軍正室の墓の形式はバラバラで、天英院の葬儀以後に正室の墓所の形式が定まったと考えられている。(中略)遺体以外の遺品の残存状況は良くなかったが、注目されるのは香木で作った小さな十一面観音像があったことである。この像の裏には「奉刻 辛卯 男子 祈祷 梅窓院住 唯然」と彫られていた (増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体)

この梅窓院というのは浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来ですが、観音堂も有名で古来より「青山の観音様」と愛称されてきたようで、恐らくその流れのものだと推察できます。

かくして大石寺の表向きアナウンスは、ご都合的でかなりいい加減なものだとわかります。