正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

カルトの総本山:6

天英院については、始めから大石寺信仰ではなく元々は実家である近衛家の乳母から日蓮信仰を聞かされて知ったようです。
この乳母(めのと)とは近衛家・家司下村頼母介某の娘と言われています。この乳母は正保元年に後に天英院の護持僧として江戸に行くことになる日衆(後に転宗して常泉寺第7世日顕)を生んでいます。

この乳母は西山本門寺の熱心な信者で、京都にあった西山本門寺末寺の上行院の檀那となっていました。西山本門寺とは日興上人の高弟日代師の開いた寺院です。(中略)
この乳母の子であった日顕贈上人(日衆のこと)は、上行院にて出家し名を日衆と改めました。11歳のときです。そして日衆23歳のとき、天英院が誕生したわけです。よって日衆は天英院と乳兄弟の間柄ということになります。(日蓮正宗サイトから引用)

 少しややこしいのですが、乳母であった女性は西山本門寺京都の末寺上行院の信徒であり、天英院の母も自身もその感化を受けて日蓮信仰に目覚めたようです。

入信後の品宮(天英院の母)は素直で熱心な信者でした。
やがて延宝8年(1680年)8月19日、父帝後水尾天皇崩御しました。(中略)孝心厚い品宮は、弟君の尊証法親王と計り、両親の位牌と下馬の別札を認(したた)めて、滋野井中務卿・今大路出雲守・馬瓜監物の三人を使者として西山本門寺に遣し、その位牌等を納めました。
今も西山本門寺の総門とも言うべき黒門の前に「下馬」の高札が掲げられているのはそのためです。(日蓮正宗サイトから引用)

その後天英院の母、品宮は仏恩報謝のため、弟である霊元天皇に「日蓮大聖人」の五文字の書を請い、これを八尺余の墓石に刻み、西山本門寺にその墓を建立奉納したと伝えられています。
これを見る限り天英院の母君、品宮は熱心な西山本門寺の信者であることが確認できます。

そして護持僧として輿入れのために随行した乳母の息子、日衆も西山本門寺で出家して京都で暮らしている時から信仰的なサポートをしていたことが確認できます。