正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

カルトの総本山:7

天英院14歳のとき、延宝7年(1679年)12月18日、甲府25万石徳川網豊(後の6代将軍家宣)に嫁ぎました。

西山文書によれば、日衆師は5年前の延宝2年9月、京都の上行院を退出して江戸(芝にあった)上行寺の住職になったとあります。
この婚礼に合わせてか日衆が師僧である西山本門寺18世日順師の命を受け江戸にいた、もしくは随行したことは間違いありません。
結婚後16歳の時に子宝を授かりますが、残念ながら夭逝し西山本門寺末の芝・上行寺に葬られました。この時に天英院の母・常子内親王は孫の菩提を弔うために法華経一部を書写して西山本門寺に奉納しています。

ここまで見ても西山本門寺系の信仰にかなり入れ込んだ実家であり、ご本人でもあったようです。ちなみに天英院は室に日蓮真筆の本尊を仏壇に祀って朝な夕なに拝礼していたそうです。

ここまで日蓮信仰といっても大石寺とは違う門流の信仰をしていた天英院と護持僧の日衆ですが、突如、日衆は大石寺に転宗し江戸小梅常泉寺に改衣しています。名前も日顕と改めています。

貞亨元年(1684年)5月24日、芝上行寺住職日衆師は改宗して常泉寺住職日顕師となりました。
同年天英院の猶子(ゆうし・一種の養子)となっていた栄存(後の大石寺25世日宥上人)が出家して日顕師の弟子となりました。(日蓮正宗サイトから引用)

直接の理由は不明です、ただ猶子となった栄存(日宥)が、大石寺日精の書物「続家中抄」では生国姓氏未詳となっています、一介の浮浪者を養子にできるものではないので、恐らく京都の公家の子弟であったらしいと言われています。
栄存(日宥)は護持僧の日衆よりももっと上の公家からの依頼で猶子となったかもしれません。ともかく、そうした諸々の事情が関係して大きな転機があったことだけは日衆改め日顕の改宗からも伺えます。