正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

カルトの総本山:10

前回の記事中に常泉寺宝蔵に入れられた鬼子母神像や観音菩薩立像のことを書きましたが、この観音像と「カルトの総本山:5」で取り上げた「注目されるのは香木で作った小さな十一面観音像があったことである。この像の裏には「奉刻 辛卯 男子 祈祷 梅窓院住 唯然」と彫られていた (増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体)」が、納入された徳川家宣の守り本尊の立像観音像一体、と一致することですね。

天英院の信仰は常泉寺住職となった日顕が護持僧の立場で教導していたと見られますが、日顕元禄16年(1703)12月39日にに87歳で亡くなっています。
そののちの教導は誰かが引き継いでいたと思われますが、天英院は寛保元年(1741年)に76歳で亡くなってますので38年間は常泉寺・後住の僧侶が務めていたと思われます。

結局天英院は大石寺の信仰とは全く別の信仰観を誰も矯正しないまま亡くなったということです。もう一つその証拠を挙げましょう。

浄土宗明顕山祐天寺に天英院が家宣の十七回忌に寄進したという鐘があり、
「家宣様のご冥福を祈り、この鐘を毎日ついてください」との言葉があったことが、寺の記録に残っているという。(祐天寺記録)

こういう鐘楼寄進を行いつつ大石寺三門寄進を為し、大石寺はその寄進を受け付けていることですね。

三門落慶の大法要は天英院の猶子である総本山第25世日宥上人大導師のもと盛大かつ厳粛に奉修されました。
その大法要の様子を聞いた天英院はさぞかし満足したことと思います。この三門の工費は1,200両かかりましたが日永上人が700百両、日宥上人が200両、天英院が300両を負担しています。天英院の厚い護法の一念が偲(しの)ばれます。
天英院にとって大石寺一門の栄えが生き甲斐だったのです。(大石寺サイト) 

 大石寺江戸幕府期に論争のあった身池対論でも、一歩引いていて、不受不施を否定して謗法の施政者から供養を受け付ける受派の寺門だったそうですから、致し方ないのかもしれません。

しかしそれでは日蓮が唱えた「諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず、(中略)謗法の供養をば銅の焔とこそおほせられたれ。(中略)与同罪恐るべし恐るべし」(新池御書)とこう決めているのはどうなるであろうか。

日蓮正宗の仏法は、大聖人様の教えを寸分違わず伝えているので、謗法の不受、謗法への不施は当然のことであり、その点からいえば、日蓮正宗も不受不施の義を守っている宗派であるといえる。(大白法・平成7年9月1日)

 どの口がこういうことを言うのであろうか、欺瞞以外の何物でもありませんね。