正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

もう一人の大檀越

天英院と並んで幕末の大石寺信徒として大々的に天璋院篤姫が宣伝されてますが、この方も元からの信徒ではなく八戸藩の藩主、南部信順から島津斉彬公とともに教化されたとあります。
そういうものですから幕末の島津藩と幕府の動きをけん制するために送られた人身御供のような存在で、嫁してすぐに夫徳川家定(33歳に婚礼)は35歳で亡くなっています。

幕末の大変な時期を世情静謐・天下泰平を願うを願って当時常泉寺に居た大石寺51代の日英上人に祈祷を頼んでいます。
合計51日間の題目行で天璋院として感ずるところがあったようで、常泉寺ならびに日英上人に結構な拝領物をたくさん賜ったということだそうです。

明治16年(1883年)11月20日に脳卒中で亡くなられ、墓は大石寺でなく東叡山寛永寺に葬られています。
ところが、亡くなってからの記録ではとても大石寺信仰に染まっていた思えない事実が出てきます。

北アルプス立山連峰に古くから伝わる山岳宗教「立山信仰」に寄進して祈とうを依頼していたことを示す古文書が富山県で見つかっています。

この古文書は、立山連峰のふもとにある富山県立山町の民家で、おととし蔵を取り壊した際に見つかり、立山博物館の研究者が文字の復元などの作業を進めています。
古くから聖地として信仰の対象となっていた立山の僧りょは、江戸時代、全国を回って盛んに布教活動を行っていましたが、古文書には、大政奉還の6年前の文久元年に、僧りょが江戸城の本丸を訪ねたという記録が残されています。
また、その翌年に篤姫が祈とうを依頼するために寄進を行ったことを示す記述もあります。
さらに寄進者の一覧には、14代将軍・家茂の妻、和宮の名前も書かれていました。
立山博物館では「当時、女性は山に入ることが許されなかったが、立山信仰は、代わって祈とうを行う宗教となっていた。篤姫は、幕末の動乱期に何かにすがりたいという思いで信仰に心を寄せたのではないか」と話しています。(NHKニュース 篤姫 立山信仰寄進の文書発見)

天英院もそうでしたが、天璋院もなかなか大石寺の信者だと大宣伝する割にヌケが多いようです。