正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

もう一人の大檀越・2

天璋院ネタではもう一つあります。それは日英師に天下泰平のご祈念を頼んでおきながら、全く真逆の懲罰依頼文書の発見ですね。

万延元年(1860年)の3月14日から翌月の4月5日までの祈祷が終えてから6年後の慶応4年7月9日(1868年)の「天璋院書状写 輪王寺宮公現法親王宛」には、日英師に頼んだ祈祷とは意趣違いの手紙を出し、今度は輪王寺宮に薩摩の征伐を頼んでます。

「(前略)扨(さて)上野一条乃儀ハ追々承り候処、第一勅額も御座候中堂山門を初、其外江炮発致御本坊迄焼払ひ候段、薩州ハ勿論其他諸家二至迄官軍と相唱候者ニ有之間敷振舞、何共可申様御座無、悪逆不法の事ニ御座候、右二付私事女儀とハ乍(ながら)申、何分黙止居かたく候まゝ委細書取を以江府大総督汀品々申立候処、取扱候役々兎角に差止メ、如何様申談候ても更ニ相貫き不申、扨々(さてさて)誰あって理非を相糺し候者も無之と只々落涙のミに御座候、
右之次第故徳川家之義ハ高七拾万石被下候へとも、此末の処先以如何成行可申哉も難計、夫ニ付候ても北国筋諸侯の義ハ実々忠義之程頼母敷感し入候事二御座候、何卒天の御恵ミ神仏の御助力を以銘々忠節之本意相貫き、徳川家再興相成候様昼夜夫のミ祈念致居候、
右二付而ハ先頃上野御一条と申其外種々不法の事のミ相募り候折柄、容易に戦争も相鎮り不申、薩長を初かゝる逆意を働き候も畢竟天子之御幼冲を侮り、銘々私慾をほしひまゝに致候より大乱と成行候事ニ付、迚(とて)も右逆賊を相手二致居候てハ、際限も有之間敷と被存候間、乍恐其御所様思召を以会津・仙台両家等江鎮撫の職掌をも被仰付候様二者相成間敷哉、左候上ハ右両家へ属服致候者ハ相ゆるし、逆意を張り妨等致候向ハ御征伐被為仰候様御叡断之程、偏(ひとえ)ニ希度(ねがいたく)存候、
ヶ様之義、申上候も憚多く御座候へとも、只々徳川家再興之一心より思召之程も不顧申上候、(後略)」

馴染みのないカタカナ交じりの書状ですが、この手紙、西郷隆盛に徳川家存続のための嘆願書を出してから4ヵ月ほど後で、新政府の徳川宗家に対する処遇に非常な不安と憤りを感じたようで輪王寺宮に徹底征伐を嘆願する内容です。
ポイントは「天のお恵み、神仏のご助力によって各自が忠節の本来の目的を達成され、徳川家再興が実現できますようにと昼夜祈念いたしております。」というところですね。
しかし大政奉還もなり、新政府発足かという時期でようやく世情が落ち着いてきた時にちょっとあり得ない動きなんです。

この始末はどうなったかといいますと慶応4年9月22日(1868年11月6日)には会津若松鶴ヶ城も降伏、そのときに輪王寺宮も謝罪嘆願書を提出しています。

この祈祷の理由は寛永寺には天璋院の亡き夫である13代将軍・家定徳川家定も祀られていたので、その寛永寺を新政府軍に焼き払われたのでアタマに来た、ということですが、結局大惨敗で天璋院は失意に落ちたという結果です。

 方や天下泰平、かたやお家の大事で逆賊征伐?美談ばかりを大石寺は言いますが、いったいどうしたかったんでしょう?