正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

敬台院と法主

天英院、天璋院ときましたので、あとは江戸期の貢献者敬台院ですね。

この方は徳川家康の長男信康と織田信長の娘・徳姫の孫娘で、家康の養女として蜂須賀家(徳島)に嫁いだが、夫の至鎮(よししげ)が1620年に亡くなり出家の意を表し、敬台院と名乗った。という出自としては文句のつけようのないサラブレッドです。

この方も大石寺が幕府に独立した存在で保護して見てもらえるよう、かなり尽力しています。
現在の大石寺にある御影堂はこの方の寄進で建立されました。昭和41年静岡県の有形文化財に指定されてます。ウィキには

1632年(17世日精の代)、敬台院殿の寄進により建立され、大石寺では現存する最古の建造物となる。「本門戒壇大御本尊」(現在は奉安堂に安置)が安置されていた時期があったが、建立から50年ほど経って現在安置されている常住板本尊(日蓮大聖人書写本尊を模刻)が安置されている。
御宮殿の中、本尊の前に日蓮等身大の御影像(第6世日時の代、越前法橋快恵作)が安置されている。

こうしてみるとかなりの入れ込みで、これだけでなく幕府に朱印を申請して、複数の伝手に根回しをしたようですね。

此寺(このてら)の御しゅ(朱)印の勝五郎かたより、ぢしゃぶぎやう(寺社奉行)の三ぶぎやう(奉行)衆へも あらおしまのかみ(荒尾志摩守)をもって 御ことはり(理り・理由)を申し入れ候(大石寺に朱印の下附を依頼する状・富要富士宗学要集) 

この勝五郎という人は敬台院の孫のようで、御朱印を貰うために荒尾志摩守に働きかけていたようです。
この書状の前半部分には大石寺を孫の勝五郎・勝三郎の墓所に考えていた部分が見えます。大石寺にかぎらず多くの大檀越が寄進や供養するのは、菩提寺として立派になってもらいたいという志のようです。
敬台院も孫の勝五郎や勝三郎がゆくゆくは一国の大名となるので、大名家の菩提寺として恥ずかしくないよう荘厳する意であったようです。