正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

敬台院と法主・3

敬台院が大石寺を孫の菩提として駿河の藩主に朱印を求めてそれは成就しました。その落着の手紙が残っています。

さまざまと御ふみくだされ、かたじけなくはいけんいたし候、仰のごとくそののちは 久々お見まい申さず、めいわくつかまつり候。

 これは伊丹播磨の守が敬台院に返書として出した記録です。この辺りはご挨拶ですね。

さやう候へば御代がわりの御朱印出で申し候につき、
ふじ(富士)大石寺御しゅ(朱)印の事 勝五郎・勝三郎御袋さま(母親)の御はか(墓)所、つぎにはそもじさま御ぼだい(菩提)所の事に候まゝ、御きも入せられ候由 御尤もに候。

富士大石寺の朱印も滞り無く勝五郎・勝三郎に降り、母親の菩提所として、またそもじ(貴方)の菩提所としての肝いり、尤もでございます、との確認です。

大石寺の事 権現様(家康公)も御ぞんじ(存じ)なされ候御やうす(様子)御一つ 書にてくわし仰こされ候、内々右のやうす うけたまはりおよび候、 
御としより(年寄)衆 ぢしゃ(寺社)方三人の奉行衆へも仰せられ候へば、大寄合ばにて だんがう(談合)有るべきよし 其折ふし わが身なども きもいり申し候やおうにと仰くだされ候、
すこしもすこしも御ぶさたに存ぜず候、

 この一件はどういう経過か家康公も存じとか書かれています。
この手紙を出した時代は三代将軍・家光の代ですので、まだリアルに家康のことが伝わっていたんでしょう。
その経由からかなり念入りに幕府方から地元にまで伝達されたようです。

松平右衛門かたへもだんがう(談合)いたし、よきやうにおのおのへずいぶん申すべく候。
くわしくはかさねて申すべく候、かしく。
経台院さま        いたみはりま守

 この朱印問題に関しての終始徹底ぶりは恐れ入りますが、ここまで執心する理由は歴史の上では名門とされる大石寺の寺院荒廃が凄かったようです。
寺経営の資金も底をつき檀越も寄り付かず、大石寺はかなり衰退しきっていたようです。伽藍は朽ち果てて僧侶も育成できておらず、住職適任者を他所から求める以外に方法もなく人材も底をついていたようです。

第15世日昌と第16世日就は要法寺から招いた僧侶です、この代から七代は当時の大石寺には僧侶の人材が居なかったので京都の若い僧侶を何人もスカウトして育成にあたったようです。結局大石寺資金も人材も底を尽き、そのままでは廃寺寸前を駿河寺社奉行被管の清彦三郎と大石寺生え抜きの14世日主が苦慮して手段やむなく、京都と通用することで乗り切ろうとしたことがわかります。

ところがカネは出さずに口は出す檀徒や大衆の反発は凄かったようです「殊に僧分輸入は在来寺衆の悦ぶ所とならず 種々の紛情をも生じ」(要集8巻・48頁)と要法寺僧侶の移入には、かなりの軋轢を生んだようです。