正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

敬台院と法主・4

少し敬台院が登場するまでの大石寺の住職(法主)周辺を俯瞰してみたいと思います。
まず、大石寺の疲弊に悩んだ日主という人が、京都の日興の孫弟子にあたる日尊の開基寺・要法寺(開基当初は上行院)と親睦条約を結んでいます。

1587年 5月8日・日主、要保寺日調と通用の申し合わせ(大石寺から要法寺へ通用の印として日目書写本尊譲渡)

これは経済的にも人材的にも底をついた苦肉の作と言えそうです。僧侶としての学識とスポンサーを持った僧侶を親睦条約で候補者を招いたようです。
この緊急回避事態は安土桃山時代に始まり、江戸時代までの長きにわたったようです。成人の僧侶は第十五世の日昌に始まり、第十六世日就へと続いたようで、あとは所化として来寺。
当然法義の違い(要法寺は仏像派、大石寺は書写曼荼羅日蓮の意とする)は鮮明でこの後に色々な化儀の変更や法義の錯乱が見られるようになります。

1592年に敬台院生誕
1594年に要法寺僧・日昌、大石寺へ赴く。

1596年9月1日、日主 下野小金井蓮行寺で日昌へ付属(富士年表から引用)

こうした年表年号は本来は元号が本当なんですが、時系列確認のため、確認しやすいように西暦で表示します。
不思議なことに日昌が日主から伝法附属を受けたのは大石寺ではなく現在の栃木県下野市にある蓮行寺という隠居寺だったようです。

ここでは日主が大石寺に在住してなく留守居の人に委任してたことが確認出来ます。

 ここで大石寺独特の法要に毎日の丑寅勤行というのがあります。

丑寅勤行とは総本山大石寺の客殿において、法主上人が毎朝丑寅の時刻(=午前2時~4時)に行なう五座の勤行のことで、本宗ではたいへん重要な意義をもっています。
大石寺を開創した第2祖日興上人は、第3祖日目上人への相伝書のなかにおいて大石寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して、広宣流布(こうせんるふ)を待つべきなり。」(日興跡条々之事)と遺命され、以来、歴代の法主上人はこれを固く守り、七百年来一日としておこたることなく、広宣流布を祈念し続けられています。(日蓮正宗公式サイトから引用)

これを参考にすれば、日主は蓮行寺に隠棲してたので、誰かが代理でしていたか、していなかったか。になります。

「歴代の法主上人はこれを固く守り、七百年来一日としておこたることなく」は違反していた事になります。