正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

敬台院と法主・7

今まで見てきましたように、人材も資金も底をついた大石寺の経営面で敬台院は孫達の大名寺として格式さえ付けば適当と考えてのかも知れません。
寛永14年(1637年)に既出の大石寺に朱印の下附を依頼する状」が伊丹播磨殿へ出されてますが、そこまでの道のりで何が有ったか確認します。

1607年日昌、日就へ法付属
1623年(元和三年)敬台院、母親のために江戸鳥越に法詔寺建立
1630年7月、不受不施問題飛び火、身延より同心を迫られる。この月に相次いで諮問、富士五山は代表として重須日賢が総代として返答。8月にも重須が返答。

1631年1月、三度目の同心を身延に迫られる(7月にも)
   10月、大石寺諸堂焼失(寛永8年)
1632年1月、日精日就より法付属される(江戸法詔寺にて)
   11月、敬台院、大石寺御影堂寄進
1636年10月 大石寺梵鐘完成
1637年  日精、江戸から大石寺に戻る
     敬台院、幕府重役伊勢廣勝に朱印下附の依頼
     日精、敬台院の推挙で公儀の年賀に乗輿を免許
     朱印状勝五郎に下る、家光の代(寛永十五年朱印、寺領三十石)

(富士年表から抜粋)

 敬台院が手紙を宛てた伊丹播磨(康勝)殿は寛永十二(1635)年に佐渡奉行、甲府城代を免ぜられこの後寛永十六(1639)年に江戸城留守居役となっています。

この留守居役とは幕府においては老中の支配に属し、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時には江戸城の留守を守る役割を果たしたといいます。旗本で任じられる職では最高の職です。いわば覚えめでたき職です。

上の年表では敬台院と十七代の大石寺住職となった日精への後押しが見られます。
そして1632年には敬台院は実母十七回忌の菩提追善のために江戸法詔寺を建立しています。
この寺に有った本尊を巡って後々いろいろな憶測が飛び交うようになります。