正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

敬台院と法主・9

大石寺の大衆を金で交渉しながら、経営権の実質を握ろうとしていましたが、その前後にはこういうことがありました。

1631年1月、三度目の同心を身延に迫られる(7月にも)
   10月、大石寺諸堂焼失(寛永8年)
1632年1月、日精日就より法付属される(江戸法詔寺にて)
   11月、敬台院、大石寺御影堂寄進(富士年表から)

 7月に四回目の不受不施問題の受派入りを身延から迫られていた矢先に10月には大石寺諸堂が火事で焼失してしまいます。
これがどの程度の火災規模かは記録では図りかねますが、身延に答えを渋っていた矢先ですから、態度を保留して煮え切らない大石寺に仏罰とも言えますし、なんとも言えませんね。

そして在任中に大石寺諸堂を火災で失った日就(16代・元要法寺僧)は、江戸に上がり敬台院が復興支援を了承した話と、翌寛永9年(1632年)1月、江戸法詔寺において17代日精に付嘱してその年の2月に他界しています。
敬台院は日就との約束通り、その年の寛永9年(1632年)11月15日、敬台院により江戸・法詔寺の本堂が大石寺の本堂として移築されましたので、大石寺の火災は本堂を失うほどの相当規模の火事であったことが伺えます。
そして、ここから日精と敬台院の時代が幕開けしますが、最初は養子ともなった日精と骨肉相食む間柄となる親子と変貌します。