正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

仏法のためなら殺人容認・2

日蓮系のなかでは布施を断つことが涅槃経を説かれた釈迦の時代以降の精神であり、首を跳ねろというのは比喩ですといいます。
その涅槃経の該当部分を挙げましょう。

涅槃経 「我れ往昔を念うに閻浮提に於て大国の王と作れり名を仙予と曰いき、
大乗経典を愛念し敬重し其の心純善に槢悪嫉煜有ること無し、
善男子我爾の時に於て心に大乗を重んず
婆羅門の方等を誹謗するを聞き聞き已つて即時に其の命根を断ず、
善男子是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」

釈迦の過去世で大王だった時に大乗経典を誹謗するバラモンの人がいたので、自らバラモンを殺し、その功徳で地獄には行かなくなった、というのです。
この思想の根拠はどこにあるのか、と言いますと大乗の空思想です。私も実体の無い空、対象の物も空である、これが前提です。

「自我があれば、実際に殺害できないだろう。 自我がなくても、殺害はできないだろう。なぜか?
自我があれば、それは永遠に不滅だろう。それが永遠に続くならば、それは殺すことはできない。この殺しにどんな罪があるのか?
自我がなければ、全ての法(法自我)は一時的だろう、そして、彼らが一時的ならば、彼らは絶えず崩壊している。
彼らが絶えず崩壊していれば、殺す人も殺される人もともに絶えず崩壊していることになる。 彼らが絶えず崩壊しているなら、罪を犯すことができるのか?」(曇無讖訳大般涅槃経

この考えは、全てが縁起であり無自性であり、自我は幻のようなものであるから、
故意に殺人を犯しても罪と考える基である自我による殺人は幻に執着する我執であると、言うのです。
まるで、魚や牛、豚は殺して食用になるのに、どうして殺人は何故いけないの?という問いのようです。

これがいいのか悪いのか、大乗経典にはこうした殺人肯定の言葉が多く残されています。