正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

機能不全の日本仏教

もうしばらくするとお盆ですけど、この時期は日本仏教では坊さんが走りまくってます。まぁかき入れ時期なんでしょうけど。
亡くなった人がこの世に帰ってくるとか、菩提を弔って何回忌とかありますが、心情的に亡き人を弔う気持ちはとても優しい感情なんですが、仏教として意味があるのかというと、これが根拠がどうも希薄です。

お釈迦さんが亡くなって、火葬に付して、その骨は舎利として、お釈迦さんの遺体の一部としてみんな大事にするということはありましたが、しかしお釈迦さんのお墓がどこにあるということはない。

つまり、仏教とお墓は関係ないということです。またお釈迦さんの高名な弟子たちの遺骨もなければ、お墓もない。全部空に帰したわけです。本来生身の間は解脱を目指し、死ねば空に帰すというのが仏教のものです。ですから霊魂というものも仏教にはないのです。(司馬遼太郎・仏教と迷信産業)

これが結構いい所突いてまして、よく考えるとそうなんですが坊さんの有難いと思える説法内容とかに、つい騙されて亡者が良き所に行けるようにとか、戒名をつければ良き所に行けるかのような錯覚を植え付けるんですね。
で、亡き人があの世から私はこういう所に行ったよとか、申告というか返事はないわけです。すべて此の世に残された人に対するアプローチばかりで、根拠はないんです。

戒名とか法号とか言いますが、お釈迦さんの時代のお弟子さん達、例えば舎利佛とか目連という人たちはバラモンという外道の修行者だったんです。
日本仏教であれば改宗すれば、名前も変えるシキタリになってます。例えば天台宗から日蓮宗に変われば法号や呼び名を変えるシステムです。でもお釈迦さんの時代はそんなことしてません、舎利佛も目連もバラモン時代に名乗っていた名前そのまま使ってます、つまり実質主義です。

戒名はいるのか?

日本では俗人や信者が死んだら、俗名を捨て戒名という名称にして位牌を設けソコに出家僧したということにして、戒を持った人になるつまり戒名ですね、でも印度にはそんなの有りません。これは中国で儒教で行っていた行儀を仏教も踏襲してそういう名前をつけるシステムとした。

日本で最初に戒名を授けられたのは、仏教の鎮護国家思想に基づいて国分寺の建立や大仏造立に力を注いだ聖武天皇だ。律宗の宗祖「鑑真」は東大寺大仏殿前に戒壇を設け、我が国初の十師による授戒を行った。このとき聖武天皇光明皇太后孝謙天皇などに授戒し、聖武天皇は「勝満」の戒名を授けられた。(仏教の歴史)

まぁ、これ以降仏教が一般化していって、それがなければいいところに行けないかのような、俗的な風習を日本では戒名と言ったわけです。

「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。位大覚に同じぅし已る。真に是れ諸仏の子なり」(道元

 道元さんは名前の有無よりも実質的な面、戒を受けたということに重きをおいたようです。つまり仏徒として自覚の問題になるわけですね。