正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

日蓮仏教の破戒的考察

前回までは総体としての日本仏教でしたが、日蓮系でも特に日蓮正宗では末法無戒を標榜してますので、更にひどいことになってます。

「問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」(四信五品抄)

 これは末法の凡夫は機根が低いので、戒・定・慧の三学の戒などは守るに耐えないと決めつけ、定(禅定)も心が常に落ち着かないので一定しない、つまり禅定に向かない、と断定してます。
最後の慧ですが、これは禅定で得られる智慧なんですが、これも頭が悪いからダメということで、信を以って「慧」に変えるという論法です。

この以信代慧の法門の根拠は、法華経の『分別功徳品』にあるようで、ここには本門の修行を、在世の衆生の信心に約して四種に分別した現在の四信と、滅後の衆生の修行に訳して五種に分別した滅後の五品が説かれています。

すなわち四信とは、一念信解(しんげ)・略解言趣(りゃくげ ごんしゅ)・広為他説(こういたせつ)・深信観成(じんしんかんじょう)をいい、五品とは、随喜品・読誦品・説法品・兼行(けんぎょう)六度品・正行(しょうぎょう)六度品の事をいいます。

これを四信・五品といいますが、この五品のうち、随喜品から説法品までの前三品が信受する衆生は、末法以前では機根が落ちるために戒・定の修行を止め、智慧の修行のみをしなければなりません。

先程も触れましたように末法の凡夫は、この智慧の修行にも堪えられないので、信をもって智慧に代える(以信代慧)よう断定しているのです。

①理即とは、理の上で一切衆生は悉ことごとく仏性を具しているが、未だ正法を聞かず、全く修行の徳がない位をいいます。
②名字即とは、初めて仏法の名字を見聞し、一切の法は皆仏法であると知る位をいいます。
③観行即とは、名字を知り、その教えのままに修行して、己心に仏性を観ずる位をいいます。(六即の三つ)

天台宗では、法華円教を行ずる菩薩の修行過程を六段階に分けた六即で四信のはじめの一念信解と、五品の随喜品を中心として像法時代では相似即(そうじそく)を修行するのですが、その天台大師も臨終は以下のようです。

「我れ衆を領せずば必ず六根清浄の位(10段目)に至らん。されど、利他の為に己を損して只、五品弟子位(9段目)あるのみ」(天台大師・遺言)

まぁ成仏できなかったようですね。日蓮もその階梯について

一、天台御臨終の事
止観の一に云く安禅として化す位五品に居す文。
弘決の一に云く安禅として 化す位五品に居す等とは此れ臨終の行位を出すなり、禅定を出でずして端坐して滅を取る故に安禅として化すと云う文、 又云く法華と観無量寿の二部の経題を唱えしむ(一代五時継図)

これを見るだけでももう既にこういう修行法は限界だと思うのですが、「法華と観無量寿の二部の経題を唱えしむ」とありますので天台大師は阿弥陀さんも動員しての臨終だったようです。