正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

等覚一転名字妙覚

日蓮さんは初期から天台大師一辺倒ですが、その天台が成仏できないのに六即の名字即の部分だけを頂いて「等覚一転名字妙覚」ということを信仰の中心に置きます。

この名字というのは名字即のことで、等覚といわれるあと一歩で仏の位にまで修行が進んだ菩薩でも最後はその知恵を信に変えて、ようやく妙覚の位(成仏)に進むことができる、というカルトな教えです。

ようするに判断や知性を捨てろというわけです。

凡夫即極=凡夫のままで仏界を顕すことができる。それは、菩薩の修行を歴劫せずして、名字即といわれる初住位以前の、まさに決意をしたときに到達できるものだという内容(某カルト系教団サイト)

こういうインスタントで達成できれば天台に限らず大乗家の三劫成仏など言わないんですが、日蓮さんのいい加減なところは即身成仏の理論的根拠は法華経にないのに、真言家が唱えた理論をチャッカリ流用するところです。

別教では初発心から解脱までを五十二位等に分類して菩薩の階位を定めている。
法華玄義巻四下に「総じて菩薩の位を明かすとは、即ち三経に約す。一に瓔珞に約して位数を明かすとは、経に七位有り。十信、十住、十行、十迴向、十地、等覚、妙覚地を謂うなり」とある。
等覚は五十二位のうち第五十一位で菩薩道の最後の位をいう。妙覚は五十二位の菩薩の究竟の位で一切の煩悩を断じ尽くした仏果の位をいう。
爾前の諸経ではこのような長期間にわたる各段階の修行(歴劫修行)が必要とされたが、法華経に至って即身成仏が明かされた。
しかし、法華経文上で成じうるのは等覚位までである。ただし、等覚位に達すると、事の一念三千の南無妙法蓮華経を悟って、そこから一転して名字妙覚の位になるとされる。
法華取要抄の文段に「台家の口決に『等覚一転して理即に入る』と相伝するなり。等海集第六二十六、これを見合すべし。若し当流の相伝は『等覚一転・名字妙覚』と習うなり。然れば則ち始め発心より終り補処に至るまで、皆久遠名字の妙覚の位に入るが故に、別して更に妙覚の益を挙げざるなり」とある。

ここに「台家の口決に『等覚一転して理即に入る』とありますがこの理即とは理即但妄の衆生のことで、仏性があるだけの修行しない人のこと。この人が仏教を聞いて信仰心を起こす初心の心を持ったこれを日蓮さんは『等覚一転・名字妙覚』としたわけです。

で、根拠を法華経に至って即身成仏が明かされた」としてますが、そういう箇所は有りません。法華経では十大弟子の人ですら記別を釈迦から貰いますが、気の遠くなるような歴劫修行です。

「等覚に登らしむとは即ち体外の意なり、妙覚に登らしむるとは即ち体内の意なり、若し体外の意は常の所談の如し。在世の衆生寿量品を聞き但二住乃至等覚に至る、而も妙覚に至るの人は都べて経文に之れ無きなり。」(当流行事抄・大石寺二十六世日寛)

と、宗祖の日蓮の意を否定して法華経には無いと言ってます。ちなみに台家では

究竟即:等覚は一転して妙覚に入り、仏果円満して断証窮極(悟りを開く)する。円教では無作の四諦・十二因縁等をあきらかにする。(天台宗教学)

とあり、ここでも日蓮の云う意味とはかなり違います。先の日寛さんは理即の凡夫が次に、理即から名字即に登れる人が一人もいないのでは意味がない。そこで理即から名字即に登るには、久遠本因の南無妙法蓮華経であると言うことの道筋を題目でつけたというのです。

これも法華経が真説であればの話ですが、根底がいい加減な漢訳で梵語にもない「妙法蓮華経」をベースにしているので、意味無いですね。
つまりは中国で天台大師が妙・法・蓮・華・経のイチイチに意味を付けた上に乗っかった論で、土台が随分ですので、親ガメコケたら全く無根拠な話になっています。