正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

名字の修行

それではこの名字即で成道というインスタント成仏は大石寺だけの専門かといいますとそうでは有りません。

名字即とは、「初めて仏様の教えを聞いて信心を起こし御題目口唱に励む位(くらい)の人」と申しまして、末法私たちお互いは名字即位の凡夫・名字の凡夫といいます。
仏道修行の位を六段階に分けて、六即と称して理即(りそく)・名字即(みょうじそく)・観行即(かんぎょうそく)・相以即(そうじそく)・分真即(ふんじんそく)・究竟即(くきょうそく)といいます。名字即はその中の一つで、仏様のお名前(名字)すなわち南無妙法蓮華経の御題目を聞き、知り、そのご利益を見聞きして絶大な経力を信じる位です。(本門佛立宗・遠妙寺HP)

 ここでも名字即の修行を語っています、先の「四信五品抄(建治3年・真蹟)」には「末法に入つて初心の行者必ず円の三学を具するや不や、答えて曰く此の義大事たる故に経文を勘え出して貴辺に送付す、所謂五品の初二三品には仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る慧又堪ざれば信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり」と簡略に述べています。

これが真蹟のない遺文になるとだんだん過激になっていきます。

■一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり。

日蓮等の類い南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり信は智慧の種なり不信は堕獄の因なり、又云く信は不変真如の理なり其の故は信は知一切法皆是仏法と体達して実相の一理と信ずるなり(御義口伝巻上)

■一代応仏のいきをひかえたる方は、理の上の法相なれば、一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を、脱益の文の上と申すなり。
文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず、直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり。
権実は理〈今日本迹理〉なり、本迹は事〈久遠本迹事〉なり。亦権実は約智約教〈一代応仏本迹〉、本迹〈久遠本迹〉は約身〈名字身〉約位〈名字即位〉。
亦云く雖脱在現具騰本種といへり。釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時日蓮が名字即の身に移せり。(本因妙抄)

この遺文は両方共に日蓮の遺文として扱うのはかなり問題が多い文章ですが、こういう文章になるほどに具体的な事も面白いですね。でもこの思想的根拠を天台に求めているのですが、ほとんど飛躍した解釈で原典にあたっても???というばかりです。

例えば「雖脱在現具騰本種」と本因妙抄にありますが、これは妙楽大師の『文句記』にある文章で、「脱は現に在りといへ(言え)どもつぶさに本種に騰(あ)ぐ」という意味です。
ここでいう本種というのは下種の事(法華経結縁の事)で、脱は華厳とか阿含とか、方等とか般若の時期に私は得道(成仏)したとしても実は因は過去にある。華厳の時、阿含の時、般若の時等に成仏したとしても、それらはその経典の功徳(本種)にあらずと、元の種が久遠の過去下種で、それから転生し熟して脱(成仏)を得た。つまり種熟脱という種が転生して心のなかで発育を明かしたという法門です。(続く)