正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

名字即までの階段

日蓮の真蹟ではあんな過激な論説はないんですが、誰が書いたかわからんニセ遺文になるとそうとうぶっ飛んでます。

「一切の法は皆是れ仏法なりと通達解了する、是(これ)を名字即と為す。名字即の位より即身成仏す。故に円頓の教には次位の次第無し」(三世諸仏総勘文教相廃立)

この遺文も昔から本覚法門ズレと言われて、日蓮の真蹟に見える思想からすると極端な論調だと疑惑のかかる遺文です。

「迹門十四品の正宗八品一往之れを見れば・二乗を以て正と為し・菩薩凡夫を以つて傍と為す、再往之れを勘ふれば・正像末の凡夫を以て正と為し・正像末の三時の中には末法の始を以つて正中の正と為す、勧持安楽等之れを見るべし」(観心本尊抄・真蹟)

 こういうカチッとした論書だと末法の到来こそが法華経の出番で、という趣旨で先の三世諸仏総勘文教相廃立に見える、名字即=末法の成仏法という論調まで行くにはかなりの論理階梯が必要と思われます。つまり、無理があるってことですね。

天台大師の六即応用の名字即成仏については、大石寺四代目の日道さんの「御伝土代」という書物に末法正意の法華経についてこうあります。

天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事。 地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に跪く天台宗は智顗禅師の所立迹門行者の所判なり、既に上行菩薩の血脈を汚す争か下方大士の相承と云はん、本地は薬王菩薩、垂迹は天台智者大師なり(中略)此の菩薩爾前迹門にして三惑已断の菩薩なれども、本門にしては徳薄垢重、貧窮下賤、楽於小法、諸子幼稚と云はれて見思未断の凡夫なり、本門寿量品の怨嫉の科あり。 日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。」(御伝土代)

書き出しは日蓮の弟子連中のことに触れて、天台沙門とはけしからんと始まって、ここでは天台大師のことを日蓮大士に比較すると「見思未断の凡夫と言ってます。
大石寺も四代目になると何らかの思想的展開があり、こう言い切る根拠が有るんだと思いますが、末法の受持成仏対象の衆生はもともと理即の「未断惑の凡夫であるのに、四代目にはこれが逆転して、六即を制定し一心三観・一念三千を提唱した天台大師を逆に「未断惑の凡夫としてしまうんですから、なにがあったんでしょうね。