正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

さて成仏するとは

日蓮さんの唱題成仏は名字即をステップとして妙覚に登るという画期的修法のように思えるのですが、華厳経でも善財童子の一生成仏の例がありますので、一概に法華経だから可能と言えるものかどうか疑問です。

この信を媒介とした成仏法ですが、鎌倉仏教は殆どこの方式で有名なのは浄土宗です。ところが本来は一般的にいえば 、 他力浄土教においては 「成仏」という約束を説かないようです。 成仏をするにしても、あくまでも浄土に往生した後、 気の遠くなるような時間を経た後の話であるのが本筋です。

「成仏」を信仰の直接の目的としない浄土教が特殊な仏教、なのではなく逆に「成仏」を現生で、もしくはこの一生で実現できると言う方が、やはり楽天的すぎるようで異端です。

「仏教は字義通り、仏陀の教であるが、同時に、又、仏陀に成る教である。 勿論、仏教の或る部門に於ては 、 必ずしも、仏陀となる教とはせられて居ないこともあるが」(宇井伯寿・仏教思想研究)

仏教が成仏教でもある、というのは上記の宇井博士が、インドの通俗的習慣に起因する多仏思想を取り入れた大乗仏教に基づき打ち立てた当時の独自説であり、宇井博士の影響力の大きさから、いまでもその説が無批判に継承されているようです。

ここで「だれもが仏になることができる 」釈尊自身が述べているわけではないとありますが浄土教法然によって提唱された時も良き親友であった明恵はその内容にびっくりしてさっそく摧邪輪という一書を挙げて批判したようです。

「菩提というは、即ち是仏果 にして、一切智智なり。 心というは、此の一切智智に於て希求の心を起こすことなり。 此れを指して菩提心という。 一切の仏法 はみな此の心に依って生起することを得。」
「根機は万差にして教門は多種なり。或いは愚鈍にして(中略) 此の如き類に対しては称名一行を勧進すべく、必ず余行を勧むべからず。」
「夫れ仏法は是一味にして、終に菩提に帰す。 汝の邪法は是別法にして、菩提心を隔つる故に、正道に相応せず (中略)汝の門弟は是別衆にして、解行人を隔別するが故に、終に涅槃に帰せず。その過、豈に破僧罪に同ぜざらんや。」 (摧邪輪)

ここで問題とされているのは菩提心です、この仏道を完遂しようと願う心を捨ててというところを問題としています。日蓮さんは念仏を批判するときにこの部分もチャッカリ戴いたようですね。

それはともかく、日蓮の信をバネにした名字即成仏、法然の他力は相容れないようですが、細かく検証するとどうも同じ種類の信仰のようです。