正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

自力他力検証

信仰の内容には自力と他力がありますが、一見日蓮さんの場合は自力のようですが、その自力・他力の定義を「近代仏教学から真宗を問う」を参考に見てみましょう。

■自力信仰=内在主義自分の内部に善なるもの・肯定されるべきもの がある 、 という考え方。 したがって 、悪 をなすことはあっても、それは客塵煩悩の所為である。自己の内の霊的な力(仏性、如来蔵、菩提心)によって、自己を煩悩から解放すること(解脱・成仏)を目指す。苦行主義、作善主義。
(注意) 浄土門(他力門) と 聖道門(自力門) を <包摂> するのが 自力主義=顕密 仏教。(例:源信は自力主義、法然は他力主義)

■他力信仰=外在主義:自分の外部に善なるもの・肯定されるべきものがあり 、自分の内部にはない、という 考え方。したがって、善をなすことはあってもそれは縁にすぎない。すべての衆生は平等に「罪悪生死凡夫」として、絶対他者の力によって残らず救済される(往生すると信ずる)

法然の救済法は阿弥陀さんの願力で、これにすがるという考え方で親鸞さんはもっと進めて信じるという計らいすらをも全て捨てて、ひたすら阿弥陀如来の願力・救済に任せるという他力信仰の徹底さです 。

名字即信仰を建てた日蓮さんの場合はどうでしょう。

■「釈尊の因行果徳(いんぎょうかとく)の二法は妙法蓮華経の五字に具足(ぐそく)す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。」(観心本尊抄

■「正直に方便を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く )の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり。(略)是即ち法華の当体、自在神力(じざいじんりき)の顕はす所の功能(こうのう)なり。」(当体義抄)

■「相構(あいかま)へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。信心の血脈なくんば法華経を持(たも)つとも無益なり」(生死一大事血脈抄

なんとはなく、自力のような他力のような曖昧とした信仰観ですね。題目唱えれば万事オッケーのようなお気楽さもありますが、それを信じろという押し付け方は、むしろ日蓮さんのキャラでしょうか?アンタが用意するのは信じる心だけ、あとは仏さん(題目の効能)でうまくドライブしてくれる、そんなお気楽さも伺えます。

「今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今仏に成るに新仏にあらず」(一大聖教大意)

「又他力も定めて他力にあらず、他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり」(一大聖教大意)

 けっきょく、浄土宗を批判するも他力と自力のいいとこ取りで、内在する仏性を開発するために拝めと言っているような部分もあるし、親鸞のように徹底信を強要している向きもあります。

でも法華経(この場合は題目)に全て入っているから(観心本尊抄)それを信じれば仏の境涯も全部お前のモノだという論法は、どこか阿弥陀信仰と似てますし、自力というのは信じるだけで自己改善しなくても良いという、自己反省しないキャラを作りそうですね。

コレ、日蓮系の人によく見かける上から目線とか高圧的言辞とかが証明してますので、オレは信じてるからが万事オッケーという、どこか仏任せの危ない信仰に傾きますね。つまり盲目的信仰として教団管理者からコントロールされやすい人格一丁上がりです。