正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

因果の思い違い

それでは本来の仏教はどう考えていたのでしょう?先のサイトの引用から見てみます。

お釈迦さまは、ジャイナ教の実践法に欠陥があると指摘します。お釈迦さまは人達にこう言います。

「あなた方は、苦の原因をカルマといいますが、そのカルマを見たことがあるのですか?」
「いいえ」
「全く見たことが無いのに、どうして苦の原因(カルマ)を無くすことができるのですか?」
「(一同沈黙)」

見たことも無ければ確かめたことも無い前世のカルマを。どうして滅ぼすことができるのですか?

 非常に明快ですね、つまり本来の仏教では無闇に前世に原因を求める姿勢をよしとしないんですね。
当たり前の善因善果、悪因苦果の因果の果報までをも「過去世の報い」とするのは考えすぎになります。過去世の報いとは、一生懸命やっても報われないといった理不尽な因果関係において、まぁ一端の置きどころのようなものです。

日蓮さんの場合は自分で原因を作って果報を受けているのに、それを認めないところからおかしい訳です。それを諸天が守らないと転嫁したところでワガママが過ぎています。
鎌倉幕府からすれば不必要な緊張をもたらす集団ですから、当然監視ときには適切行動します。それを法華経への「迫害」だと強弁しても、法華経はそんなことは約束してません。そういう破綻がアチラにもコチラにも遺文を読むと散見できます。

「さらにまた、マンジュシリーよ、如来が完全な涅槃にはいったのちの時代、のちの時節、のちの五百年において、正しい教えが消滅しつつある(末法)とき、この法門を説きひろめようと欲する菩薩大士は、安楽な境地にいる(住安楽行)。

彼は安楽な境地にいて、身体に宿るか書物にあらわされるかした教えを説き、他人について語るばあいも、彼は激しく欠点を言いつのることはないし、他の説法者の比丘たちの悪口を言うこともなく、非難することもなく、咎めだてすることもない。さらに、他の声聞の道に属する比丘たちの名をあげて、非難することもなく、咎めだてすることもなく、彼らに対して敵対心をいだくこともない。

それはなぜかというと、いうまでもなく彼は安楽な境地に安住しているからである。彼は法話を聞きたいといって次々にやってくる人々に、ねんごろ(懇ろ)に親しみ深い態度で教えを説く。

口論にはしるようなこともなく、質問されても彼は声聞の道によって答えるようなことはせず、ただしかし、なんとかして仏陀の知をさとるように(と願って)答えるのである」(法華経安楽行品)

法華経には折伏という行為はありません、安楽行品の教えは全く逆です。日蓮さんもこのことを別の宗派の人から指摘されています。それでも改めなかったようですね。