正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

種の扱い

日蓮正宗以外では「性種・乗種」をどう扱っているかといいますと。

「衆生に性種の仏種は有りとも、之これを開発せざれば無きも同然にして、何等なんらの功徳なく仏性とは名のみにして終る(中略)その能開発の力ある教法を名けて乗種といふ」(本化聖典大辞林・下巻)

日蓮の宗教では理具よりも事具を重んじ、性種よりも乗種の有無を問題にしていた」(上古日本天台本門思想史・浅井円道氏)

他経典の解釈書では華厳経がこの種子を扱っていて、以下のように解説されます。

華厳経では種子を仏種・法種・僧種の三義に立て分けたうえで
「華厳の第七に云く(中略)仏は種子を衆生の田に下して正覚の芽を生ずるは仏種をして断ぜざらしむ云云」(止観弘決)と、乗種を強調していることがわかる。 

 さて後から植える感じの「乗種」が優勢で「性種」は分が悪そうです。

さてそこで、諸法無我を説く仏教が、こういう物質実体的なものを心に作用させてどうこうする発想は、いつから仏教に登場したかが問題になってきます。

仏法における下種の行法を見聞きしたり、行をしないと九識が育たない。従果向因、すなわち悟りの内容そのもの(法体)を受け入れることで九識潜在の心田に種が下される。そして阿頼耶識から独立した九識として育成されていく。(日蓮宗系ブログ)

ここに九識というのが出てきました。これは言い換えれば性種とも言えそうですが、元々に心の奥底に有りますが、有るとも無いとも言えないシロモノです。でもこれは唯識とか言う心の階層を瞑想して発見した印度考え方です。

唯識は、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『解深密経(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』として確立した。

そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる。
論としては弥勒(マイトレーヤ)を発祥として、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された。無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を、世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した。「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした。(唯識ウィキペディア