正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

下種と元からの仏性

仏種のことは概ね前回までで理解できますが、さて大乗には仏性について本来仏性があることを前提とします。いわゆる如来蔵思想ですね。

■然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり(生死一大事血脈抄

■ 一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し(三世諸仏総勘文教相廃立)

 ちょっと真偽に怪しい遺文なんですが、この根拠は天台宗でも摩訶止観に述べられていますので問題はないと思います。日蓮遺文でも触れています。

■止観の一に云く「此の一念の心は縦ならず横ならず不可思議なり但己のみ爾るに非ず仏及び衆生も亦復是くの如し(八宗違目抄)

日蓮は末法濁悪の衆生に対し盛んに仏種の下種を主張する反面、仏と衆生の同体即具も論じている。 すなわち、若し仏種と仏性が同一概念のも のであるならば、本来仏と同体であるはずの衆生に新たな下種は不必要なはずであり、それにもかかわらず下種が論じられるということは、日蓮の主張する仏種に仏性とは異なった何等かの意味付けがあるはずです。

「今は又末法に入て二百余歳、 過去現在に法華経の種を殖たりし人人もやうやく(ようやく)つきはてぬ(尽き果てぬ)」(小乗大乗分別抄)

この遺文も門流によっては解釈バラバラで、問題があるのですが、共通テーマとして元々あるものをなぜ下種しなければならないのか、ということが「性種」と「乗種」の問題で、こうなるわけです。

「衆生に性種の仏種は有りとも、之これを開発せざれば無きも同然にして、何等なんらの功徳なく仏性とは名のみにして終る(中略)その能開発の力ある教法を名けて乗種といふ」(本化聖典大辞林田中智学編)

仏種については根拠として法華経方便品に「実には一乗の為なり 諸仏両足尊 法は常に無性なり 仏種は縁によって起ると知しめす 是の故に一乗を説きたまわん」とあるので、法華経も「乗種」の立場なんでしょう。