正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

種に迷う信者たち

前回は性種と乗種の区別でしたが、この判別に迷うとトンデモナイ独善教が出来上がります。ここにサンプルとして面白い発言がありますので紹介します。

■人は仏です、ですが忘れているのです。迷いの衆生とはそう言うことなんです。

『一 寿量品
御義口伝に云く寿量品とは十界の衆生の本命なり、此の品を本門と云う事は本に入る門と云う事なり、凡夫の血肉の色心を本有と談ずるが故に本門とは云うなり、此の重に至らざるを始覚と云い迹門と云うなり、是を悟るを本覚と云い本門と云うなり、所謂南無妙法蓮華経は一切衆生の本有の在処なり爰を以て経に我実成仏已来とは云うなり云云。』
 (御義口伝巻下)

如来寿量品とは、十界の衆生の命の本質だ。南無妙法蓮華経とは一切衆生の事なんだ。 
■難信難解とはね、この欠点だらけで悩み多き自分自身が、久遠の南無妙法蓮華経如来の当体だ。
信じることが困難で、理解することも困難です。一切衆生が本来久遠の南無妙法蓮華経なんだ。難信難解なんですよ。

■地獄は地獄のまま、妙法蓮華経の当体なんだ。仏は仏の姿、凡夫凡夫の姿、そのままで妙法の当体だよ。仏法を修行する事で何か違った存在になる事ではないのですよ。貴方方はそのままの姿が元々の仏様なんですよ。あらゆる物の本質が妙法蓮華経で差別はないんだよ。

■仏法は人間のための教えである。教えのの大原則なんですよ。国の憲法みたいなものです。仏法が人間のためなら、人間が本。仏法が迹。

■自分と他人は自分が本、他人は迹。ですからご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。命は双方と差別なく妙法の当体ですから、本です。ここは差別が無いのです。

■30歳以後の釈迦と、以前の釈迦。双方仏です。
然しながら両者に間には明らかな相違があります。30歳までの釈迦は、自分が仏である事を忘れているのです。30歳で思い出した。これが釈迦仏法の最高の教えです。(某日蓮系教団員・発言録)

 一言で言えば、如来蔵つまり仏性があるという言葉だけで喜んでしまって、もう成仏したかのような錯覚をしたのでしょう。これは性種の理解範囲で菩提を得たと勘違いした人ですね。

日蓮の宗教では理具よりも事具を重んじ、性種よりも乗種の有無を問題にしていた」(上古日本天台本門思想史・浅井円道著)

妙法(仏性)一切衆生に具わっている、というのですが、仏種には本有法性の縁による仏種と、仏の説教の縁から起こる仏種とがあることは論外のようです。

種についての理解に迷うと仏気取りの人が大昔から居たようで、江戸期には本覚門という法義は禁じられたそうです。この本覚門も性種だけで喜んで修行しなくなった勘違い僧侶が多く居たそうです。