正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

けっきょく種って

唯識派は、無意識の下にある「種子」に業の結果と原因を求め、また解脱のための智の原因をも求めました。
しかし密教のように、もともと無意識に清浄な智が存在すると考え、「種子」を全ての解決策・原型と考えるには至らなかったようです。

種子の考えは、中観派から責められた有部の「三世実有」という仏教にあらざる思考を改めるために持ちだした説ですが、何かが有るという考えから抜け出ることはできなかったようです。

「仏教内部では、知の領域にのみ認識される形象があり、しかもそれのみがわれわれの経験領域であると主張するのが唯識派、認識される形象はすべて知の領域に属するが、知覚の場合には、知の外部に存在する対象が認識される形象と同じ形象を持ち、それが原因となって知の領域に認識される形象が喚起されると主張するのが経量部であって、この二派は、共に有形象知識論者である」(唯識・沖和史氏著)

無我から発展した心の観察者は分類された存在要素(五陰)をさらに小さな単位に細分類して観察を続けていきます、動機はどこかに有るかも知れない自我の存在を否定することにあったこと。

古くからあった五群・十二領域・十八種などの範疇表のほかにも、制約されたものと無制約的なもの(有為無為)、内と外、煩悩あるものと煩悩なきもの、原子からなるものとそうでないもの、というようなさまざまな範疇を考案する。そして、十八種のうち内なるものはどれとどれ、外なるものはどれとどれ、というように、範疇を縦横に組み合わせる操作をくり返してゆくことによって、存在の細小単位をいよいよ厳密に規定し、それら相互の関係を明らかにしてゆくのである。そのような過程を通じて有部が到達した最終的な範疇が五位七十五法と呼ばれるものである。(梶山雄一著・空の論理)

こういうプロセスを経て辿り着いた所は「有部の哲学のメリットは無我の論証ということに尽きるわけではない。むしろ、その範疇的思惟がそこへ必然的に導いていった実在論にこそこの学派の最大の特色があるのである。梶山雄一氏・同著)というパラドックスだったようです。