正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

種なしなのに、有るという。

長いシリーズでしたが、大乗の種の起源をさかのぼりました。ということで、結論めいたことを。

「ある一類おもわく、仏性は草木の種子のごとし、法雨のうるおひしきりにうるおすとき、芽茎(がきょう)成長し、枝葉華果も(茂)すことあり、果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解(けんげ)する。凡夫の情量なり。」(正法眼蔵・仏性の段)

 大乗仏教とくに天台宗密教関係で仏種の問題を扱うと、その存非に?となったのですが、結局道元さんの言う「かくのごとく見解(けんげ)する。凡夫の情量なり。」という達観が正しかったようです。

初期に無我・無常と説かれて、五陰のどこにも我なるものは無かったはずが、仏性概念と如来蔵の思想勃興で仏種を実体化して、それを救いの種としたのですね。

■「今は又末法に入て二百余歳、 過去現在に法華経の種を殖たりし人人もやうやく(ようやく)つきはてぬ(尽き果てぬ)」(小乗大乗分別抄)
■「法華経は種(たね)の如く、仏はうへて(植えて)の如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ(違わせ)給はば日蓮も後生は助け申すまじく候」(曽谷殿御返事)
■「日蓮は日本国安房国(あわのくに)と申す国に生れて候ひしが、民の家より出でて頭(こうべ)をそり袈裟をきたり。此の度いかにもして仏種をもう植へ、生死を離るる身とならん」(妙法比丘尼御返事)
■「悦ばしきかなや、楽しきかなや、不肖(ふしょう)の身として今度心田(しんでん)に仏種をうえたる」(撰時抄)

これらの一類の文章は「迷い事」みたいなもので、下種という行為も仏種も実体化した何かが、衆生の心に植えつけられて、作動するお伽噺であることが分かりました。
つまり、この面から言っても日蓮の言い分は無根拠をベースにした種なし仏教だったんですね。