正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

何だかな〜。

さて、元に戻って大石寺の場合を考えてみましょう。

『日興跡条々事』に、
大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。」

とありましたが、大石寺は日興→日目と譲られたわけです。施主は南条家の当主時光さんでした。上記の文章では日目さんが修理と管理をすることになっています。律に疎い日本仏教では寄進を受ける=所有権も居住権も受けた人のものにあるわけです。

「施主が特定の人に布施したものを。あとで別の人や僧団に布施しなおした場合、初めの布施だけが有効であって、2番目の布施は無効になる。」

「土地は王に帰属する、建物及び建物内の備品は施主に属する、そして施主は建物が傷んだら自ら補修修理しなくてはならない」

お釈迦さんの律法ではそうはいきません、出家僧侶は無所有が基本です。ですので、何ら生産的なことは禁止されていますので、別の信者に寄付を頼むこともできないわけです。それをやると所有権を誇示したことになる。あくまでも寄進した施主さんが建物の修理を行うわけです。 その人が亡くなれば、それを引き継ぐ人が近親者で出ればまた修理を行うというわけです。

上座仏教の国の人たちは、僧侶に対して批判などしません。むしろ、尊敬して積極的に彼らの生活を支えてくれます。なぜかといえば、そういう生活をする替わりに僧侶は多くのものを棄てているからです。「律」という規則に従って、財産の所有、飲酒、着飾ることもすべてできません。
こうした生き方に対して社会は敬意を払って食べ物を施し、そして、僧侶たちはそれに応えて身を律して、自分の生き甲斐である自己向上のための修行に邁進するのです。
こうした仏教僧団の生活の仕方が「出家」という生き方です。出家とは現実世界の価値観に満足しない人たちが、そこから抜け出して同じ価値観を持つ人たちだけで集まり独自の島社会を作って、あるいはそういう島社会に入って生活することをいいます。そこで、自分たちの価値観に合った、つまりやりたいことだけをやって生きていきます。
この島社会はその性格上、生産性が低かったり皆無だったりするので一般社会と関係を築いて、彼らからの保護・施しによって生きていくわけです。
なぜ一般社会から保護を受けることができるのかといえば、世俗の楽しみなど何かを棄てているからであり、棄ててまで自分の追求するものに没頭して生きる、その覚悟が立派だということで、その見返りとして支えられるのです。これが仏教僧団でいえば、托鉢で生きるという姿です。(佐々木閑氏・律」に学ぶ生き方の智慧)

これをみると、なにか一番大きなものが渡って来なかった気がします。