正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

けったいな理屈

日蓮系でも大石寺の信者さんはよく「仏因仏果」ということをブログや掲示板で書かれています。

至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり(当体義抄・真偽未決)

ここに「之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」とありますが、仏になる因を修行すれば仏の結果が出るという事です。つまり如来になるという事。道元にも同じような語句があります。

おほよそ仏法は、知識のほとりにしてはじめてきくと、究竟の果上もひとしきなり。これを頭正尾正といふ。妙因妙果といひ、仏因仏果といふ。仏道の因果は、異熟等流等の論にあらざれば、仏因にあらずは仏果を感得すべからず。道林この道理を道取するゆゑ(ゆえ)に仏法あるなり。(正法眼蔵・諸悪莫作)

こちらのほうは少しニュアンスが違います、「仏道の因果は、異熟等流等の論にあらざれば」という注釈がついてます。この異熟等流というのは因果の上で二種類の見方です。

善因には楽果、悪因には苦果が訪れるという法則を同類因・等流果と呼ぶ。一方、因は善あるいは悪であり、果は無記であることにおいて、因と果は性質が異なることを異熟因・異熟果と呼ぶ。

日蓮の方は仏因は題目だといいます、これを修行すれば仏果が得られるということです。自身の修行は題目を信じて唱える行為の中に仏因があり、仏果が保証されているということです。

道元さんの方はこの文章の前に過去に白楽天と道林禅師の問答を引用しています。そして双方ともに道徳の上から「悪いことをするな、良いことをしなさい 」と説きます。

道林は白楽天にこう答えます。「諸悪莫作、衆善奉行」だと。単純に「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば楽が起こり、悪いことをすれば苦が起こる”と説明されますが、因果は、生死を超えた概念であるために、必ずしも今生の善因が今生で楽果となるとは限らない。逆もそうだということです。

日蓮さんの方は「因果倶時・不思議の一法」で、時間差を経ずに同時感得する仏因です、道元さんは自己の当体をそのまま真如(悟り)と見ようとする姿勢を批判し、心生滅門に立ってホトケが仏になるという立場です。このお二人全く違うんですね。