正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

因果同時か否か?

日蓮信者がよくいうのが「因果倶時の法理は、日蓮大聖人のお悟りの瞬間の命の実相そのものであるからです。」というテンプレワードですね。

法華経で説く一念三千は、現在の瞬間に因・果・国土世間の三つを包摂するものだそうで、はじめに因果倶時ありきから全てが始まったそうです。

聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し(当体義抄・偽書濃厚)

原因があって、結果が生まれるつまり、種 ( 原因 )があったから実 ( 結果 )がなった。ごく普通に理解できる話ですね。ところがもっと深い根源的な状態があるんじゃないかな、と誰しも考えてしまいます。

インドではそういう根源を求めようとしたようで、比喩として蓮の花が有名です。蓮は、花と同時に実 ( 果実・種 ) が存在していて、そして花が咲いてから実がなる他の植物とは違います。花と同時に実がなっている = 原因と結果が同時に存在している、蓮華に取り込まれた喩え通りに日蓮さんの言う因果倶時に似ています。

これをみるとインドの釈迦の前に時代に出てきた思想とよく似ています。日蓮系では、妙がすべての根源でここから十の世界が出てきたというわけです。別の言い方は一念三千です、瞬間に全ての発展が内在して有る。

ある結果が生ずる時、原因の結果への事実上の変化がある。例えば粘土から瓶が生じ、ミルクから酪が生じるようにである。こういう真理のあり方を説いたのはサーンキャ派(数論派)という外道によって主張されたそうです。 

結果は、それが生じる以前に、既に質量因の中に何らかの形で予定されたものとして存る(サーンキャの所説・田中典彦|印度哲学概論)

 なんだか似てますね、真言宗の阿字観とも共通の考え方を感じます、ちょっと因果倶時をこのサーンキャの所説と比較してみましょう。