正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

霊的存在

日蓮の思想で面白いのは、先のヒンドゥー教的な本源思想があると思えば、憑依のような入れ替わり現象も見られることです。

「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。ただ、ひとえに釈迦如来の御神(たましい)、我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも、悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。」(撰時抄・真蹟)

日蓮が頭には大覚世尊かわらせ給ひぬ」(乙御前御消息・真蹟なし)

これをみるとまるでシャーマニズムで、神宿り(和御魂の状態の神霊が宿っている時に使われる)のような状態を文章にしている感があります。

巫女や霊媒師と言われる人は神がかり状態になれば、意識はトンデしまうらしいですが、意識があってそういう状態の人もいるようです。 

民俗学者小松和彦は、憑き物がファースの定義による「個人が忘我状態になる」を伴わないことや、社会学者I・M・ルイスの「憑依された者に意識がある場合もある」という指摘以外も含まれることから、憑依を、フェティシズムという観念からなる宗教や民間信仰において、マナ(原始的な宗教において、神秘的な力の源とされる概念である。魔法や超能力といった尋常ならざる特別な力の源とも言われている。)による物体への過剰な付着を指すとした。

そのため、「ゲームの最中に回ってくる幸運を指すツキ」の範疇まで含まれると定義する。(霊媒憑依・ウィキペディアから)

 こういうことをもっともらしく取り上げて、本仏の霊言とする教団の解説書などには、恭しく憑依状態を本地開顕とか論理的に説明するようです。

此の書の所謂、釈迦如来の御魂(たまし)いの我身に入替らせ給うと云う其の釈迦如来の御魂と者(は)、是れ即ち久遠元初自受用報身如来の御魂なり。此の御魂即ち今日末法に出現して、示同凡夫の尊容たる宗祖日蓮大聖人の御魂にて在すなり。是即宗祖の御内証全く久遠元初の本仏たる深意を密かに顕し玉う御文言なり。(日蓮本仏論・大石日応:大石寺貫首

 霊媒憑依のたぐいと仏教を同じ次元で論じるのもおかしなものですが、日蓮正宗信仰は多分にシャーマンな部分を含んでいて、板を日蓮祖師と同格(板に日蓮の魂が憑依していると説く)に論じたり、抜け落ちた歯を御生骨として崇めていたり、ともかく霊的存在が有るというシステムのようですね。