正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

弥勒と天台宗

日蓮の祖山と仰いだ延暦寺の開基伝教大師は、法華経に登場する弥勒に関してどんな見解だったのだろうか?記録では

804年、最澄は入唐に先立ち、弥勒信仰の盛んな豊前の国に寄って、香春(カル)岳に登っている。何と翌年には早々と唐留学を終え無事帰国した最澄であったが、その折にもここを再訪し、香春社に神宮寺・法華院(法華経を通じ弥勒信仰を表現した=神宮院)を建てています。

表には出ないものの、弥勒に関しては寺社を建立するくらいですから何か感じるものはあったのでしょう。

法華経の序品では文殊師利菩薩は

「かつて名声や利益を求めた求名(弥勒菩薩の過去世修行の名前)でさえも善根を積むうちに仏に会い、後に弥勒菩薩となり、またこの世においても釈迦牟尼佛に会うことが出来て、さらに釈迦牟尼佛の教えを受けて、後の世に弥勒仏となるであろう。」(法華経の序品)

 と話して、文殊師利菩薩は、釈迦牟尼佛の眉間から出た白毫相の光は、日月燈明仏の時と同じように、釈迦牟尼佛が「妙法蓮華経」を説こうとしている瑞相であり、一心に合掌して待つようにというシーンは有名です。

叡山の五代目に当たる円珍は唐から帰国後、園城寺(別名・三井寺)を開きます。本堂の本尊は弥勒菩薩像であり、円珍没後、園城寺(寺門派)は、比叡山の山門派に対して、最澄以来の弥勒信仰を以って日本天台宗系譜とします。

この論拠になったものは最澄の弥勒信仰を円珍が受け継いだことを象徴としたものです。さらに園城寺の鎮守社・新羅善神堂の祭神新羅明神で、垂迹根源は弥勒菩薩であったことは注目されます。

こうした弥勒信仰の発展・展開は平安期からの末法思想をその背景としています。かいつまむと日本における弥勒信仰は上生(弥勒のいる兜率天内院に生まれ合わせたい)信仰がまず発達し,次に下生信仰(弥勒が下天して法を説く際に生まれ合わせたい)が発達した。上生信仰は奈良時代貴族信仰として発達し,下生(下天)信仰は民衆信仰に展開発展しました。

下生信仰は末法思想と深い関係をち、弥勒が未来世に下生するというその時期を末法時代とし、このような末法思想と下生信仰が結びついた歴史的事実が多いようです。

ただし日本では鎌倉時代以後,法然浄土教が流行するに従い弥勒信仰は大きく衰退したようです。