正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

脳内の阿弥陀

ずっと日蓮のいう阿弥陀のイメージと本来を検証していますが、つまるところは、法華経に吸収された阿弥陀如来を元としてあくまでも釈迦に収斂する形で日蓮阿弥陀仏を見ていたようです。

「日本国の一切の女人、法華経の御心(みこころ)に叶うは一人もなし。我が悲母に詮とすべき法華経をば唱えずして弥陀に心をかけば、法華経は本ならねば、たすけ(助け)給うべからず。弥陀念仏は女人たすくる法にあらず。必ず地獄に堕ち給うべし。」(千日尼御前御返事・弘安元年:真蹟)

 これは日蓮の典型的な阿弥陀如来への解釈ですが、仏格としては認めていても、働きとしては否定しています。「弥陀念仏は女人たすくる法にあらず。必ず地獄に堕ち給うべし。」と書いていますので、あくまでも日蓮の脳内の阿弥陀だったようです。

もともと阿弥陀仏の本願は、どのような経過を以って誓いとされたのでしょう。その生起本末を検証してみましょう。

天台大師の『法華玄義』には「諸仏の大悲は苦者に於いてす。 心偏に常没の衆生を愍念したもう。これを以て勧て浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人の如きは急に須く偏えに救うべし。」とあります。常に地獄へと向かう衆生を哀れんで浄土へ導こうと発願したとあります。

このことは『悲華経』に「煩悩多き衆生は賢劫の一千余仏が放捨する所」と説かれて、救われる側の衆生のあまりの煩悩の大きさに捨ててしまう仏もいたというから、凄まじいですね。
『不空絹索神変真言経』には「常に十方三世の一劫の如来、一切の菩薩の棄捨する所」とも説かれて、そういう衆生は救いがたいという存在のようです。
その救いがたい衆生を西方浄土に往生させて成仏に導くことが阿弥陀如来の本願ですから、法華経を中心とした考えの中に入る入らないは、まったく日蓮の脳内操作でしか無いことが分かります。