正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

空というあり方

大乗仏教の初めには空の原理的解明を巡って上座部からも批判されてきた経緯があります。

龍樹などが説一切有部の実体論的hな空解釈を批判して「中論」を著しましたが、同じように上座部からも批判されています。

空を実体的な有と変わらないものにおとしこんだ説一切有部のような説もありましたが、中国でも仏教伝来初期では老荘思想の相対的な位置づけの「有に対する無」を空にあてはめるというような、いわゆる格義仏教の時代がありました。

老子第四十章に「天下万物は有より生じ有は無より生ず」という言葉があります。此の無は事物であるところの有がそこから発生し、そこへ帰滅していくという始源的・還元的実体としての、あくまで有に対する無であり、これを仏教の説く「空」と同じとした。(空思想について)

この思想はなかなか中国仏教から抜けきらず、天台大師の一心三観もこの延長と言われています。

空とは「もろもろの事物が相互依存において成立しているという理論」 である。その基にある中観派哲学者たちの認識とは、「何ものも実 在するものはない(存在するものがないのだから、実体もない)。 あらゆるものは見せかけだけの現象にすぎない(見せかけあるい は現象を発生させている基体あるいは物自体もない)。その真相に ついていえば空虚である。つまりその本質を欠いているのだ」(中村元・龍樹の思想)

 もともと空の原義は「空っぽ」から来ているので、これを実体視するほうが無理があるのです。龍樹の『中論』でも同じ事が書かれています。諸法は実有するのではなくて、「自性」としてないといったのです。

ところが中国に渡ると「自性」とは、説一切有部の理論家たちが考えたように、法の本質のあり方を実体視したものである、ということになってしまう。