正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

天台大師の思い違い

中国で錯覚された空の思想、慧文禅師は著者不明の大智度論を龍樹作と思いこんで、その教説から「一心三観」を開発し、それは慧文→慧思禅師→天台大師智ギへと伝法されていきました。

しかし、智ギ達は、中論を漢訳で読み梵本を当たらずに鳩摩羅什の意訳である道教的解釈で改変されたものから龍樹の「空・仮・中」の三諦の解釈を大きく間違えてしまいました。それはそのまま日本に持ち込まれて、その思想こそが釈迦以来の伝統だと思い込んでしまいました。

慧文禅師に始まる天台宗では、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)による漢訳『中論』の、第24章18詩である、
「衆因縁生(因縁所生)の法、我即ち是れ無(空)なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり。」
(どんな縁起の法でも、それを我々は空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。)
における「空」「仮」「中」を、それぞれ別々の真理(諦)と捉え(「空諦」「仮諦」「中諦」)、この文を、その「三諦」を説いているものとして「三諦偈」と呼ぶ。
ここでは、「空」と「仮」が、「無」(断見)と「有」(常見)の「二辺」として捉えられてしまっており、その「空観」と「仮観」の対立から、「中観」(「非有非空の中道」)を見出すこと、あるいは、これら「三諦」を一体的なものとして観ずること(「一心三観」「円融三諦(三諦円融)」)などが、説かれる。
しかしながら、上述したように、『中論』の原義から言えば、この一文は「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、全て、「縁起」「無自性」の言い換えであり、同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、ただの「同義語」として使用し、「無分別」(勝義諦)の境地を強調的に表現しているだけに過ぎず、対置・対立させるような関係にはそもそもないのであり、ましてや、「空」や「仮」を、「無」(断見)や「有」(常見)の「二辺」と混同してしまうような、上記の捉え方は、端的に言って、文の解釈としては、明確に誤りである(龍樹・中村元

これはサンスクリット語に精通された真言密教僧侶でもあり、仏教学者でもある渡辺照宏氏も同じ見解で中国で龍樹の本意は改変された、と仰せです。