正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

日蓮の空否定観

日蓮の遺文では龍樹菩薩の大智度論や中論を引用する割に大乗仏教の中心しそうである「空」については、かなり偏向した批判的論述の仕方になっています。

「坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し」(立正安国論

「教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にて・ましませしが苦行・楽行・十二年の時・苦・空・無常・無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか」(開目抄)

「或は小乗経に対して勝劣をとかれ或は俗諦に対して真諦をとき或は諸の空仮に対して中道をほめたり、譬へば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし」(報恩抄)

 この三編をみても、空思想=小乗=低い教えという考えが見て取れ、決して天台大師の一心三観とか三諦論を大切にしているようなムードは有りません。

「沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘れて称心の酔を覆う、著有の法相は撲揚の帰依を非し青竜の判経を撥う等」(報恩抄)

どちらかいうと、空思想に耽溺するのは大乗から弾呵された小乗=悪という差別感そのまま受け取っているようです。この思想性について日蓮正宗の僧侶であった花野充道氏は機関誌「法華仏教研究」で以下のように見解を述べられています。

龍樹菩薩の空の思想、天台大師の三諦円融の思想、松本史朗氏の如来蔵思想批判、袴谷憲昭氏の本覚思想批判に基づいて、日蓮聖人の思想を解釈しようとされているようであるが、日蓮聖人の思想の本質は空ではない、と私は思っている。

日蓮聖人が図顕された本尊(大曼荼羅)は、決して空ではない。久遠の本仏・本法の当体であるから、それは実体である。」(法華仏教研究・10号)

私もまさしく日蓮は法界の有様や仏菩薩を実体的に捉えて、存在として有る、という実態性を思考していたと思います。それが仏教的であるかどうかは、一番の疑問ですね。