正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

喩え話じゃなくなってる

本来の法華経では柔らかな三乗を一乗に止揚してくという感じですが、日蓮正宗では強硬な否定文句が入ります、それは一切の根源という久遠実成、もしくは一仏根源(久遠元初)という思想ですね。

「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。しかし、われは実に 成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」(法華経如来寿量品)

で、ここから正宗系では「私が、もと菩薩の道を実践して(我本行菩薩道)、成就したところの寿命は、今なお尽きていない」と示すんです。簡単に言うと法華経の釈迦は久遠実成を果たしたけれども、経典にはその修業の仏因(菩薩道)があったというのですが、その法こそが正宗では、題目だといいます。

さてここで、いろいろな解釈が施されるんですが、それは飽くまでも久遠実成の仏は釈尊だという派と、いやそれこそ日蓮様だと言うん派ですね。

中には御本尊を著した人が菩薩であるわけ無いとか、トンデモ系の話になる人もいます。さてそこで、こういうのを少しずつ崩していこうと言うのがこのブログの趣旨なんですけど、一つは「常住」という考えですね。

結局、仏が久遠から居たという時間経過の路線話になってます、駅が法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久遠をたとえた五百億塵点劫」という駅。もう一つは「化城喩品のたとえ話を三千塵点劫」という駅。

 

本門の寿量品に言う「五百千万億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫」の方が迹門の化城喩品「三千塵点劫」よりもはるかに長遠だと、それよりも本因の時代はもっと前だというのです。経典の前提では虚数の時間で喩え話を言ってるのにいつの間にか日蓮系では実際の話になっているのが面白いですね。

その根拠は「過去五百塵点劫より、このかた、この娑婆世界は釈迦菩薩の御進退の国土なり」(釈迦御所領御書)から始まっているので五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味を持たせたので、リアルの話に飛躍してしまったんですね。