正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

同床異夢のこと

最古の経典「スッタニパータ」では、「無我」については「苦」が、「自己への執着」にその因を見出し、その「執着」が「我執」となり、「自我(アートマン)」となる。そのアートマンを否定し、「捨てる」ことこそが求められています。お釈迦さんは寄る辺ない自我からの脱却、超越、解放、解脱を志向することを指し示しています。

つまり解脱によって安らかな自己を確立したあとは、自己(アートマン)と法(ダルマ)を燈明として、いかに思い、いかに語り、いかにおこなうかを決めるのですね。

「つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境地である。つとめ励む人は死ぬことがない。怠りなまける人々は死者のごとくである。」「道に思いをこらし、堪え忍ぶことにつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎ(ニルヴァーナ)に達する。これは無上の幸せである。」(ダンマパダ:中村元訳)

「自分を救うものは自分である。」(法句経)

サンスクリット版の法華経も言い方は違いますが、釈迦が成道した後も修行を続けている姿を「我本行菩薩道」と表して、「我本行菩薩道 = 教え導く為に完全な「覚り」の境地を示すのです。(訳:岩本祐・法華経)」さらに「また、善男子よ。私は、過去の菩薩道を今もまだ完成させていないし、寿命の長さも満たされてはいません。」となっています。

虚構の自我を捨てた後もお釈迦さんは、修行を続けているという文脈は初期経典も梵語版の法華経も言い方の差はあれども同じですね。