正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

国家管理のお寺

東大寺国分寺は僧侶が建てたものではなく、当時の天皇や為政機関が予算を立て浄財を募って建てたものです。つまりお寺ですら国家が関与していたということです。

地方の権力者(地頭など)や合力する旦那衆がお寺建てて、そして坊さんに来てもらい費用は供養や布施で皆賄う。こういうお寺は氏寺と言ってその家の先祖や将来を繁栄するために、仏教を利用して家督繁栄を祈願してもらう謂わば、個人的宗教。

菩提寺というのがありますが、有名な大名の熊本でも細川家の菩提寺、泰勝寺という有名なお寺があります。細川家の先祖を祭るお寺です。

薩摩だと島津家の曹洞宗の大寺・福昌寺が有名ですが、檀家や信者さんはあまりおらず、明治以降の廃仏毀釈で取り潰されたようです。

殆どがお寺というのは宗派を問わずその地方の殿様の先祖を祭る菩提寺になっていて名刹というのは、信者というのはあまりいないようです。もっと有名なのは天皇系のお寺で、門跡と言われて信者は取らないで幕府や公卿が管理運営していたようです。

養老令で定められた僧侶の出家も以下の様な実態です。

得度というのは、本来は在家者が出家して僧籍に入って沙弥になることをいうのであるが、それは国家よりみれば、戸籍・民政・租税徴収を主に掌った民部省の戸籍より名を削除し、治部省の僧尼籍に編入することである。僧尼籍に編入することによって課税の対象より除外されるのであるが、同時に国家の厳重な管理下に置かれた。そのことは僧尼の刑罰については刑法典である「律」ではなく、令の「僧尼令」に定められたことにも明らかである。また度者(得度者)の人数には制限が加えられた。毎年一定数のみ許可され、奈良時代では最大10名が許可された。

その他、臨時度者があり、特別な儀式において度者を許された。また「死闕の替」というのがあり、度者が死亡すると、その替として度者死亡人数と同じ人数の得度が許された。(石田瑞麿・日本仏教における戒律の研究)

これらは発布された奈良時代から、明治維新まで有効だったようで「僧尼令」は、明治5年4月25日(1872)に、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事(今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべし事) 但法要ノ他ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事(ただ法要の他は人民一般の服を着用して苦しからず候事)」という、「太政官布(第133号)」が発布されるまで有効な法律でした。その期間、実に1117年間。

ところが、平安中期には律令制は完全に形骸化し、僧尼の堕落も日常的常識的なものとなっていたため、そしてまたそのような僧侶に上皇や貴族達がなっていたために、国家としてこれを厳に取り締まることはほとんど不可能となっていたようです。

日本では僧侶がなかなか尊ばれないのは、こういう歴史的な実像が庶民と乖離していて、国家や幕府もさまざまな法度(はっと)を制定しましたが、ほとんど脱法的な僧尼の存在と堕落・非法には手を焼いていたのが実情でした。