正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

「体空観」と「析空観」

前回の「析空観」ですが、こういう根拠はほとんど中国の天台宗の天台大師の解釈から来ています。因縁によって生じた事象そのものに即して空であると観ずることが「析空観」といいますが、これと対して「体空観」というのもあります。

空観に二種あり、析空は専ら小に在り、体空は小大に共なり。(摩訶止観・巻六)

この「析空は専ら小に在り」という「小」は小乗のこと、対して「小大に共なり」は当然小乗大乗ともに言う、ということです。で、体空ですが意味としてはこういうことです。

人間存在をはじめすべての物質的精神的事象 (諸法) をその構成要素にまで分析して,そこに実体的存在性がないことを証明する析空観 (しゃっくうかん) に対して、諸法を分析するのではなく、そのまま幻のごとくであり、空であると観じる方法。(仏教辞典)

 ま、要するに体空観は、瞑想によってこの現象世界は直ちに空であると体感することと、されていますので分析的に一つ一つ見ていくか、直感的に観ずるかの差異でこちらの方は大乗小乗の区別なく用いるということです。最終的に天台家では中道という理屈に持って行きます。

初期仏教では無常・無我と言うことをいいもう一つ涅槃寂静の3つを三法印と大事にしますが、この辺りは天台家では「諸法実相」として有るもの(現象)は、実相の現れと説くスタンスです。

禅家ではかなり違っていて「禅的哲学」に参考になるコメントが有ります。

空観というものは思想的には空虚である。つまり空観は思想ではない。言葉によって伝えるべき内容がもともと伴っていないのである。だからそれをあえて言葉にしようとすれば否定的な表現にならざるを得ない。逆に言えば、否定的な言葉はすべて空観と通底しているとも言える。

「無が自分か、自分が無か」という状態にあるのは概念の解体ということに違いない。そこでは空観や時間の概念も解体される。だから、あちらとこちらの区別もなくなるし、「永遠の今」などという人もいる。しかし、空観にはもともと思想としては、伝えるべきものが何もないということはわきまえていなくてはならない。否定は単に空に「感覚的」に通底しているだけであって、完全に一致しているわけではない。思想的に空虚であるということは、空の観点からは否定もまた否定されねばならないのである。不去来は不不去来であって、不生不滅もまた不不生不不滅なのである。空を予定調和的な否定で表現してはならない。(禅的哲学)