正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大乗の無常観

日蓮正宗では無常とか無我ということは、言いませんで天台家の説である「諸法実相」のままにこの世の現象は、根源の現れという事を言い無常ということを嫌う一つに、仏花の例があります。

「栴檀及び沈水 木樒並びに余の材」(開結115頁)をもって御宝前を荘厳することが説かれており、色花は見た目には艶やかで美しいが、ほどなくしおれて散ってしまう、仏法上から見れば無常なることを示しふさわしくないと記されています。末法万年にわたり衆生を救済する御本仏、常住不滅、尊極無上の御本尊を荘厳する華は、豊かな生命力をあらわす常緑樹であり、日本唯一の香木である樒を尊ぶ(続 日蓮正宗の行事、19~20頁)

日蓮正宗では一般仏教と違って仏壇には色花は供えず、シキミを供えます。理由は常緑樹だから、仏の施化が永遠であるようにという事を表すそうです。色花は枯れますので仏の存在が無常に映るので、嫌うというわけです。

まるで神道のような考えですが、初期仏教で言う「諸行無常」の「行」はパーリ語に拠れば作られたもの、という意味だそうで「すべての形作られたもの、形あるものというのは、千変万化して一つとして同じ状態を保っているものはない。変化しっぱなしである」という意味になります。

ヴァッカリよ、もうそんなことは言いなさるな。やがては腐敗して朽ちてしまう私のこの肉体を見たとて、なんになりますか。ものごとの理法を見る人は、私を見るのです。また私を見る人は、ものごとの理法を見るのです。じつにものごとの理法を見ている人は、私を見ているのであり、私を見ている人は、ものごとの理法を見ているのです。(「相応部経典」第二十二経、「雑阿含経」第四十七巻)

大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説きました。これを常楽我浄と言いますが、インドの外道見の常楽我浄を一旦否定して、更にその見も否定するので、結局根源は有るということになるのですが、正宗ではそれを戒壇本尊だとします。