正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

根源は題目

富士門流系の日蓮本仏論の欠陥を上げてみますと、なるほど本因・本果だの久遠釈迦に結縁した正像の衆生が居て、結縁しない末法の衆生の機に応じた仏の出現だの、至れり尽くせりですが、久遠実成と久遠元初の仏を巧みに使い分けて、久遠実成の仏には仏にならしめた法があるとしています。

その久遠の時代(我本行菩薩道)に修行した法こそが本尊と題目だと言うのですが、それでは久遠元初の仏が成道した法は、やはり本尊と題目なら、もしくは法と仏が元々に居たとなると、

久遠元初の自受用身報身如来という存在は一体何を根拠として仏ならしめたのか不明です。

これ仏教的には真言宗大日如来と変わらない法身如来になってしまいます。もしくはキリスト教一神教圏内で崇拝される神の様な概念(元からいた存在)でいいんでしょうかね(笑)?

その本仏論の根拠とする日蓮の遺文関係は偽書ばかりです。

「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果俱時不思議の一法之有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり」(当体義抄・真偽未決)

「釈迦如来五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわせし)時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟を開きたまひき、後に化他(けた)の為に世世・番番に出世・成道(じょうどう)し在在・処処に八相作仏(そうさぶつ) 云云」(三世諸仏総勘文教相廃立・偽書

如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、

寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、

惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。」(御義口伝・室町期成立の偽書

 とりわけ三世諸仏総勘文教相廃立の題目根源思想は、密教の阿字観と何ら変わりませんけどね。