正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

変遷する本仏論

先の記事では原殿ご返事から導かれる意図は、日蓮の事を日興は「仏の御使」と規定しており、釈尊日蓮の関係については釈尊南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来であり、日蓮にとって釈尊「初発心の本師」としています。

この文書からは日蓮本仏は導かれない様子ですが、近年正宗は本仏の範囲を当代の法主まで広げているようです。

「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。
なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。
したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません。」

(法道院主管早瀬日慈、妙本寺住職鎌倉日櫻、平安寺住職椎名日澄、妙蓮寺住職吉田日勇、寂日坊住職瀬戸日謙、本行寺住職高野日海、法霑寺住職秋山日浄:連名文書)

戒壇本尊というのは日蓮の当体という考えが正宗の法義ですので、これと等しいということは、日蓮戒壇本尊=当代法主、ということになります。

こういう思想がいつから持ち上がったのか不明ですが、昭和20年に亡くなった一僧侶のこういう文書が残っていますので、大正から昭和にかけて出てきた考えかと思われます。

末法の正本尊は、発迹顕本の日蓮大聖人である。

その本地本証たる久遠元初の自受用の尊容を一切衆生の為、万年流布の為自ら毫(ふで)を染めて親写し、御弟子日法上人に命じて之を楠板に彫刻せしめ給いしが戒壇の大御本尊であり、滅後の今日大石寺を以て唯一の義の戒壇とするに異
議の申立を許すべきでない。
 
戒壇の御本尊と血脈相承と法主上人と一体不可離のものたる説をなした人がある。キリスト教の三位一体説を焼き直したような説をなした人がある。

三身即一身、三秘総在の一大秘法等の名目は古来から伝承したが、三位一体説は全く一夜造りの手細工だ。

血脈相承が如何に高貴な伝灯証で我等凡下の窺知するを許さざるものとするも、法主上人が高徳賢明にして一世の景仰する所なりとするも、之を独一本門戒壇の大御本尊に比べては物の数ではない。

「南無妙法蓮華經に余事をまじへば、ゆゆしきひが事なり。」

尊無過上の大曼荼羅に物を並べ奉ること且つは恐れあり且つは憚りあり、若し極言せば謗法罪を構成する所説である。かかる所説を盲信する者は法主の所在を以て戒壇となすならんが、吾人窃かに憂なき能わずである。

大石寺が義の戒壇たるは閻浮第一の御本尊在すからである。血脈相承と法主の所在によるからではない。

戒壇の大御本尊貴き故に血脈相承貴し、血脈相承貴きが故に法主貴し、と、縦に次第すべきもので、之を横に並べることも、伊字の三点的関係に置くこと(注、キリスト教の三位一体説のように解釈すること)も、断じて許さるべきでない。

されば大石寺戒壇の大御本尊在します以上、他人をして血脈相承と法主上人の尊貴に向かって、鼎の軽重を問う自由を与えうる必要を認めない。(福重照平師『信・行・学』・345~346ページより引用)

 なんだか言うことが昔と今ではバラバラですね、こういう発言は封鎖されてしまったのでしょうか?