正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

文字に意味付けの始まり

天台大師の五重玄は「名・体・宗・用・ 教」という各々義に分けて法華経解釈を施したものですが、こういう「何々玄義」のような形式を持った注釈書や解釈の仕方は天台大師の生きた隋代にあっては随分流行した考えのようで、天台大師の独創では有りますが、特殊な類ではないそうです。

横超慧日氏は宋代に至るまでの経典注釈の歴史を「注釈時代」「疏釈時代」「玄談時代」「論釈時代」「宗釈時代」と区分し(中略)智顗が活躍していた時代にも経典注釈の形式は大きな変化をとげた。 横超氏の区分に従えば、「疏釈時代」から「玄談時代」への推移である。(中国仏教における五重玄義の位置・  神達知純氏)

 これをみると、法華玄義の「玄」というのは「玄談時代」から来ているようですね。「注」の時代から「疏」への移行を促したように、注釈における玄談が「玄義」「玄論」の名で発表されたようです。

特に天台大師に先行した吉蔵と法蔵の注釈書時代に経典注釈書における経題解釈がかなり流行したようです。

吉蔵については『三論玄義』に龍樹菩薩の『中論』(中観論)の題目(タイトル)について「通じて言を爲さば、三字は皆中、皆觀、皆論なり。」(大正蔵四五―一三下)とか、著者がさも題名にこれだけの意を尽くしたのだと、無理筋の訳をつけています。

更に『大乗玄論』巻五には、天台大師の十如是を三諦に約して読む原型のような解釈を施しています

「然るに中觀論の三字に定まり無し。亦は「中観論」と言い、亦は「観中論」と言い、亦は「論中観」と言う。若し「中観論」を論者に約せば名と爲す。若し「観中論」を観解に就けば目と爲す。若し「論中観」を論功に約せば稱と爲す。」(大正蔵四五―七三下)

こういう風潮を仏教学者の中村元氏は「題目の訓詁注釈に耽溺していた」 (シナ人の思惟方法)と意味のない解題を尽くして仏教のテーマから外れた言葉遊びのような解釈付けを暗に批判されています。

天台大師の五重玄もこういう風潮の中から生まれた、いわば経典の権威付けのテクであったわけです。