正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

五重玄のルーツ

法華経題目の妙法蓮華経に意味付けをしたのは法華玄義を著した天台大師です、その流れを日蓮も踏襲しています。

妙法蓮華経の五字即五重玄なり、妙は名・法蓮は宗・華は用・経は教なり」(十八円満抄)

この元ネタは、天台大師の『法華経』の経題、すなわち『妙法蓮華経』のなかの最初の 「妙」の一宇を解釈して、これに十種の意味が合まれているとし、 迩門の十妙、本門の十妙、観心の十妙などを説きました。これも幾らでも付けようと思えば可能な、謂わばこじつけです。

やや天台大師よりも先に生きた法蔵も『華厳経探玄記』巻一に『華厳経』の経題を「大・方・広・仏・華・厳・経」というように一字一字に分け、さらにそれぞれ十義に及ぶ詳細な解釈を施している事例があります。つまり天台大師は宝蔵の影響を受けてその手法をパクったんですね。

その五重玄の一番初めの「名」ですが、万物に名称があることから始まっています。しかし僧肇という方の論書「不真空論」には以下のようにあります。

肇に云く、名は物を召すの功無く、物は名に應ずるの實無し。名無 く、物無し。名物は安にか在らん。蓋し第一義の中の無相の意なるのみ(僧肇「不真空論」)

本来、名は物を呼ぶ働きはなく、物は名に応じるだけの実がないのだから、本来は名もなく物もないのではないか、と僧肇は論じています。そして「世諦は言を爲す。名無くんば以て法を顯わすこと無し。故に初に名を釋す。」と仮に使う意味で「名称」がなければ、それによって法をあらわすこともできないから、 まず釈名を立てるといいます。対して天台大師は

名は法に名づく。法は即ち是れ體なり。名を尋ねて體を識る。(法華玄義・生起の項)

名とは法に関して名づけ、法とはまさに体である、つまり名=法=体という理論です。日蓮「一切の物にわたりて名の大切なるなり」(寂日房御書) と同見解です。