正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

五重玄の意

五重玄の元ネタの流れがつかめたところで、天台大師が尊敬していた龍樹菩薩の大智度論を元に五重玄の「名・体・宗・用・教」と説いていく順のことについてこのように考察されています。

「大智度論」では、言辞を絶し心行を滅していることと「一切実、一切非実、一切実亦非実、一切非実非不実」に表されることはともに「諸法実相」であり、また第一義悉檀であるが、智顗はこの両者を可説と不可説に区別して論じるのである。言辞を絶して本来は説くことができないこと(不可説)を、仏は四悉檀を用いて「一切実、一切非実......」という四句分別によって説く(可説)という理解であろう。
五重玄義に即して言えば、仏は四悉檀を用いることによってその不可説である実相の体にさまざまな名を立てたということである。したがって名を推尋することによって体を知るという次第をとるのであって、次に宗・用を導く根拠となるのである。

「體は宗に非ずんば會せず。體に會して自行已に圓なれば、體より用を起し、含識を導利す。」

体は、因果である宗でなければ適うことがなく、体に適い自行がすで に円かになれば、体より化他である用を起して、他者を導いて利益するのであるという。
先に示したように宗・用はそれぞれ為人・対治悉檀に対応していた。宗・用にもそれぞれ生善・破悪の性格があると智顗は理解したのであろう。名を推尋し体を知るということは、主体者の立場からすれば、自行化他にわたる因果を通じて初めて実現していくものである。よって宗と用が立てられた訳である。(中国における五重玄義の位置・神達知純)

要するに寂滅(実相)の不可説なものを敢えて言語で説こうという手段に四悉檀を用いたということです。 神達氏は「智顗は四悉檀を経典解釈の一方法とせず、仏と衆生との関わりとして理解した。五重玄義にも仏と衆生という意義が込められていることは、両者の対応からも明らかであろう。」とされて、その意を解明されています。

説くことの出来ない実相を四悉檀で説こうとしたのですが、それを妙法蓮華経こそ最極の真理で仏の生命だとした日蓮の説はどこか無理な解釈誤解があるように理解できますね。