正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

法華の経題は本尊になるのか?

日蓮宗の本尊は門流に依っては色々あって、題目を中心に仏像というパターンや、二仏並座、釈迦像+四菩薩、文字曼荼羅という形式など、大石寺門流以外は砕いて言うと釈迦像は外せなくて、祖師像も別という形式が多いです。

さて五重玄=題目五字の上に正宗では本尊という論法なのですが、今まで見てきたように梵語で和訳すると「正しき白蓮の教え」が本尊の資格になるのかという事が一番問題ですね。

このことを明治大正期にわざわざ危険を犯してチベットまで踏破し仏典の信ぴょう性を確かめた河口慧海氏が「在家仏教」で以下のように指摘しています。

「法佛一如本尊論は法華経二十八品中にはなく、一切蔵経どこにも見出せないのである。たとえその文が蔵経になくとも、正しい理由があれば取るべきである。けれども妙法蓮華経と言うことは一経典の題目であって、佛の名ではない。元来経典は、法を表わすものであるから、その題目が法の名であると言うことが出来よう。しかし佛の名であると言うことは決して出来ないのである。然るにそれを以って佛の名であると言うのは、こじつけであり詭弁であり、融節応用の謬(びゅう)論(ろん)である。」(在家仏教)

この文中の「法佛一如本尊論」というのは、日蓮正宗などで主張される本尊の首題と日蓮を一体にして人法一体と解釈するという発想と釈迦が持っていた法という考え方で、要は本尊格に首題(妙法蓮華経)が適応するということですね。

これに対して日蓮宗では「本化教学の本質的な思想解釈を河口氏は理解していない」として「本宗(日蓮宗のこと)の大曼荼羅の具現化した佛像、その論拠としての宝塔品の儀式を本尊とすることは彼の宗教体験からは理解出来ないのではないかと思う。」と反論しています。

でもこれは前提が間違っていて、河口氏は大乗仏典その物がおかしいとして、法華経も創作仏典という前提のもとに、敢えて法華経の中の経題を本尊とするのはおかしいと指摘しているのに、法華経内の宝塔品の儀式が本尊であるとか、そこから派生した思想を根拠に反論しているのは、まるで大石寺の秘密相承を根拠なしと否定している裏返しみたいですね。

 

ともあれ、経題はあくまでも経典タイトルであって、それを唱えたり文字に書いて拝んだりはおかしいことは事実ですね。