正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

疑惑の宗派の反論材料

日蓮正宗ではよく遺文の真偽や相伝を問われると経典の作成経由を指して、釈迦の直説を口誦したであろう初期経典も創作だと指摘します。つまり大乗が創作なら初期経典に当たる小乗経典もすべて創作だと言うわけですね。

釈尊が実在したという証明はできない
・初期経典が釈尊の直説という証明はできない
釈尊が説いた法と現在伝わる仏教が全く同じという証明は不可能

一番目はついては、釈迦が遊行した地方や第一次経典結集において こういうことになっています。

第一回結集(五百結集)
釈迦滅後すぐに、マハーカーシャパ(摩訶迦葉)が会議を招集し、五百人の有能な比丘がラージャグリハ(王舎城)郊外の七葉窟で、ウパーリ(優婆離)が律の、アーナンダ(阿難)が経の主任となり、読誦する本文を検討し、教団の名において確認決定された。

マガダ国の王アジャータシャトル(阿闍世王)が大檀越としてこれを外護したといわれています。

フランスの仏典学者エミール・セナール(1847-1927)は、
「パーリ仏典に史実はまったくない。仏陀は、太陽神信仰が生んだ神話である」と解釈。それに対して、オルデンベルグは「いや、実在した」アショカ王時代の銘板の存在を以って主張します。

●1898年1月イギリス駐在官であったペッペという人が、北インド地方にあるネパールとの国境近く、ウッタル・プラデーシュ州バスティ県に位置するピプラーワー遺跡というところで古いストゥーパを発掘中に地下6メートルの地中から石製の箱を発見します。

1000点以上の宝物とともに、灰と骨片の入ったいくつかの壺が入っていました。

その壺の一つには、インド最古の文字であるブラーフミー文字(紀元前3世紀頃の文字)で「これはブッダの遺骨であり、シャカ族が奉納したものである」というようなことが刻まれていました。仏教経典によれば、ブッダはクシナーガラで亡くなった後荼毘に付され、位牌と遺骨はブッダを崇める8つの国へと分割されます。
そしてそのうちの一つがブッダの生地であるカピラバストゥに納められたとされています。仏典の記録と発掘された遺物との照合で本物の仏舎利であろう、と認められたため釈迦は実在の人物であることがほぼ決定されたています。

発見されたブッダの骨壺は現在、コルカタのインド博物館に収蔵されています。

アショカ王(阿育王・在位紀元前268年頃~232年頃)がブッダ生誕の地を訪れたとき、ここが生誕地であることを示すために残したと考えられる石碑や、釈迦がこの地で誕生したことを示す生誕石が発見されています。こうした発見は、「釈迦の生誕地はどこか?」という問題に解答を与えるだけではなく、釈迦が実在の人物であることをより完全に証明するためにも必要なことだといえるでしょう。

自宗の胡散臭さを隠蔽しようと、逆質問で経典=口伝の文字化として、ない知恵を絞りますが、とりあえず、一番目は論破でしょう。